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メッセージ入れ替え日は不定期になりました。随時、 入れ替えますので、トップページの更新情報をご参照下さい。 |
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アンパンマン | |
久々にNHK朝ドラにはまっています。と言ってもリアルタイムでは見れないので、 録画して見ています。なぜかと言うと「やなせたかし氏」の生い立ちを描いている からです。言わずと知れる「アンパンマン」の作者ですね! アンパンマンの主題歌の中にとても意味深い歌詞があります。「何の為に生まれて 何をして生きるのか・こたえられないなんてそんなのはいやだ!」子供向けのアニメ ですが、人生観を訴え掛けている深い歌だと思います。この作詞も「やなせ氏」が、 書かれたようです。実は、やなせ氏は「クリスチャン」と言う話はキリスト教会内 では有名ですが、でも「クリスチャンではない」と言う情報もあるようです。一度も 出会った事がないので定かではありませんが・・・ しかしアンパンマンは、いつも優しく勇敢で、何より困っている人の為に自分の顔 を犠牲にして「助けてあげる(救ってあげる)」姿は、聖書的であってイエス様と 重なると思います。 人生の問いかけ?「何の為に生まれ?・何をして生きるのか?」答えられないのは 嫌だ!と歌っていますが、皆さんは答える事が出来ますか?多くの人が、それは人生 を掛けて捜しながら自分で見つけるもの?と思っておられるのではないでしょうか? しかし、現実はどうでしょうか?現代は「生きる意味を失った時代」とも言われて います。「心の時代」と言われてもう40年ほど経過しています。 こんな統計があります。ユニセフ「国際連合児童基金」が、毎年「子供の幸福度」 をランキング形式で発表しています。これは先進国を対象に3つの分野から判断して いるようです。 @「身体的健康」⇒「子供たちの肥満度や死亡率」 A「精神的健康」⇒「いじめの問題や家庭内の問題」 B「学力」 2025年の発表によると日本の子供たちは、 @「身体的健康」は36か国中「第1位」⇒日本は恵まれた国だと言う事です。 A「精神的健康」は36か国中「第32位」⇒対照的に心の問題を抱えている国です。 ※子供たちの自殺率が増加傾向にあるのが、日本の現状です。 ●総合的には36か国中「第14位」 日本は深刻な状況にあると思います。物質は豊かな国であるにも関わらず、心は満足 していないからです。 聖書に次のような言葉があります。「金銭を愛する者は金銭に満足しない」この 言葉は「物質を愛する者は物質に満足できない」と置き換えても良いと思います。 相変わらず叫ばれているワード!それは「経済成長・賃金上昇・物質繁栄・生活の 豊かさ!」確かに物価高の時代ですが、それに比例して収入も増える事が当然である かのように捉えている?ようですが、それでも現状は世界から見るならば「豊かな 国・日本」である事に気が付いておられるでしょうか?現状に感謝する心があるで しょうか?いや、多くの人の心が満たされていないのではないでしょうか?物質では 満たされない人間の心が、子供たちを含めた日本社会全体に浮き彫りにされているの ではないでしょうか? うちの子に限って・・・そんな親バカは通用しない時代になってしまいました。 陰湿ないじめ問題・心の問題・鬱や自殺願望の問題・引きこもりの問題などなど、 子供の心も大人の心も蝕(むしば)む暗闇が、襲い掛かってきます。そんな中で聖書 のメッセージを心に留める人は幸いであると確信しています。もともと人間の心は、 物質では満たされないように造られているのです。もっと違うものを別の視点から・ もっと違う物を別の次元から捜し求めてみてはいかがでしょうか? たとえ物質は豊かでなくても心に「喜びと平安・感謝と充実感」を持って生きる 人生が、聖書の中に記されています。真の神様との関わりの中に生きる時、人間は 「何の為に生まれ・何の為に生きて・死後にどこに行くのか」を悟る事ができ、 決して揺るがない人生を生きる事が出来るのです。皆さんにもそんな有意義で価値 ある人生を歩んでいただければと願っています。そして誰でもそんな人生を生きる事 が出来るのです。アンパンマンは「犠牲を払って終わり・顔を失って終わり」では なく、その分「喜びと満足・愛と優しさの心・何より新しい顔で再び誰かの為に生き る事」ができるのです!(不思議な生き方ですね!) 聖書の言葉「受けるより与える方が幸いです!」 |
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高学歴=良い人間とは限らない | |
米騒動のご時世の中、○○農水相の発言が炎上して話題になっている。 「私は米を買った事がない。家には売るほど余っている!」野党からは、「消費者で ある国民・生産者である米農家に対しても失礼な発言でありバカにしている」と責任 問題を問う声が投げ掛けられている。そして多くの国民が、不快な思いをしている事 も事実である。「こんな人が米価格の安定を保つ役割をする大臣なのか・・・?」 国会議員は、民意を受けて選ばれた存在である。一人一人が投票した尊い一票の中 には、それぞれの人々の様々な思いが込められており、その熱い思いを託された代表 として政治家が存在する。と言う事は、政治家は当然、国民の思いを汲み取って議員 としての活動の中で国民に還元していかなければならない。その為に、税金の中から 庶民とは掛け離れた「高収入」が保障されている。 ところが、実際はどうであろうか?国民の為?「いや自分の為?、地位と名誉と 財産(これらを合わせて権力)にしがみ付き、自己保身の為に存在している政治家」 が余りにも多いのではないだろうか? 権力にしがみ付いている人の特徴は・・・ @「自己中心」 A「偉そうで横柄な態度」 B「常識がない(政治家の常識は世間の非常識と言われている)」 C「庶民感覚がわからない」などなど・・・ おもしろい事に政治家の人々は、比較的「高学歴」の人が多いようである。恐らく 投票権を持つ国民側にも投票する基準の目安の一つの中に「高学歴」が入っていると 想像する。(ちなみに私の基準の中にはありません。) 安倍元総理時代、若者の犯罪が増加傾向にあった時、安倍さんがこんな発言をした。 「もっと道徳教育をしっかりやらなければならない!」本当に道徳教育で良い人間を 形成する事が出来ると思っているのか?恐らく自分は「良い人間」だと思っている からこその発言だと思うが、これは「的を外している」としか思えない。 高等教育・高学歴であれば=「優秀な人間・良い人間」なのであろうか? 教育だけで「心豊かな人格者・心もおりこうさん」そんな人間が、本当に形成される のだろうか?その答えは、国会議員(政治家)を見れば「No」である事が、よく! わかる。冒頭に挙げた「○○農水相」も海外の有名大学で学んだ経験がある輝かしい 学歴を持つ人であるが、そんな人が「このような発言をする」からである。つまり 高学歴=「良い人間とは限らない」と言う事である。 ちょっと過激な発言になるが、 「頭は良くても心がおバカさんもいる」逆に「頭はおバカでも心が良い人もいる」 新約聖書の13の書簡を書いた「パウロ」と言う人物がいる。彼はユダヤ教時代は、 イエス・キリストが大嫌いでイエス・キリストの教会も迫害した人物であった。 彼の最大の特徴は、ユダヤ教の中で「エリート中のエリート」であった事である。 彼の勲章のような肩書は、まるで「水戸黄門の印籠」と同様、それを掲げるならば、 みなの者が跪くほどのものであった。 そんなパウロが、ある時「イエス・キリスト」に出会って180度、心の大変革が 起こる。ちなみに世間一般的に知られている「目からうろこが落ちる」と言う諺は、 「パウロが、キリストに出会った時に起こった出来事(目からうろこが落ちた事)」 から来ている。キリストに出会って救われたパウロが、自分の心の葛藤を的確に告白 している。 「頭では良い事だと分かっていてもその良い事を行う実行力がない」 「頭では悪い事だと分かっていてもなぜか?その悪い事を行ってしまう」 自分の中に相反する二人の自分が存在する事を発見する。 つまり「頭の理解と心の反応や態度」は別物であると語っているのである。これが 聖書が語る「罪の問題」である。(罪の本質は「的外れ」と言う意味です。) どんなに良い高等教育を受けて高学歴であったとして「頭ではそれを理解していて も心が伴わない!」これが罪の性質の特徴である。パウロも「高学歴=良い人間とは 限らない」と告白している。すなわち聖書のメッセージは、罪によって心が「自分の 言う事を聞かない状態・感情の奴隷状態」にあると言う事!そしてこの問題は、人類 の全ての人が抱えている厄介な問題である。 頭の良し悪しの問題は?それぞれの努力にも関係しており、これから努力して頑張 れば良くなるかもしれない。でも知って欲しい!イエス・キリストは、私たちの心を おバカさんにする罪の問題から救い出し、心の綺麗な人間・心豊かな人間・等身大の 自分を受容して自分を愛しながら、他者を心から思いやり心から愛する者に変える力 がある。 皆さんはいかがでしょうか?自分磨きに励んでおられますか? 人間の本当の魅力は、「心の中」がどんな状態にあるのか?によって決まるのでは ないでしょうか?その人の心(内側)から外側に向かって流れ出て来るもの!つまり 人格品性において豊かな人間こそ、本当に魅力ある存在であると思います!そして このメッセージを書いている私自身もそのような存在になりたいと願っている一人 です!・・・ 聖書の言葉「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれ るのでしょうか?私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 パウロの言葉です。 |
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進化論から来る発想の末路 | |
テレビに出て来る芸能人(有名人)の方々が、発する言葉や考え方、そして価値観 は世間の人々に多大な影響を与えています。それはテレビに限らず、SNSでの動画 で個人の主義主張を気軽に配信できる時代でもありメリットとデメリットの両方が 含まれています。 そこで発信されるメッセージの中で時々聞こえてくるのが、「人生には意味など ない!」と言う主張です。それは、それぞれの人生の中で自分自身が見つける事で あり「自分の人生だから自分でやりたい事・自分の好きな事を見つけ出してやれば 良い」と言う人生観です。ある有名な女性のタレントさんが、「性」についてよく 配信しています。テレビでも語っています。こんな話題を語っていました。「何歳 ぐらいから性的な関係を持って良いのか?」今や小学生から性交渉する時代と言わ れていますが、ある医療関係者は「性交渉の低年齢化に対して警告」しています。 その有名タレントは「自分の人生であり自分の体だから自分で決めたら良い」と 語っていました。「自分の人生?・自分の体?・自分で決める?」まさにこの発想 が進化論の立場に立っている立派な証拠です。進化論とは、全ての起源は偶然から 始まります。その偶然性の中で優秀な遺伝子だけが進化しながら生き延びて来て 後世に継承され「猿から人間に進化した」と言う考え方です。しかし優秀な遺伝子 を継承している人間であるにも関わらず、なぜ世の中は良くならないのでしょう? ・なぜ争い合いあったり・なぜ戦争まで起きているのでしょう?法治国家だからと 言って果たして人間は?世の中は?法律に触れなければ何をしても良いのでしょう か? 進化論から来る発想の特徴は「真の神様を排除した考え方であり、人間が自己 中心的に自分の思うままに生きる考え方」です。その末路は更なる進化なのでしょ うか?いや間違いなく「地球滅亡」です。地球は今日も様々な意味でダメージを受 け続けているのです。ちなみに聖書を読んでみると「性的に乱れた国」は必ず滅び ている事がわかります。例えば「前回に取り上げたノアの箱舟時代」・神様から 裁きを受けた「ソドムとゴモラ」が良い例です。 聖書に次のような言葉があります。「私たちは神の作品であって、良い行いを する為にキリスト・イエスにあって造られたのです!」 私たちは神様に作られた作品です。決して大量生産された製品ではありません。 みんな世界でたった一人の「傑作品」であり、神様の言葉である聖書が語る創造論 の立場に立つと全ての人が「Only1の存在」とされていると言う事がわかります。 神様に造られた存在なので「人生には意味(目的)あります。」神様から与えられ た人生なので「自分しか奏でる事ができない音色(ねいろ)があるのです。」 そして聖書は「性」についても明確に語っています。まさに「性」とは「聖」の 領域に属する事なのです。「人間」と「動物や昆虫や植物」は、明らかに異なる 存在である事が「性」の視点からもわかります。「性教育」が日本は遅れている ようですが、どんなに性教育をした所で性教育だけでは、残念ながら性の抑制には なり得ません。最初のメッセージに戻りますが、「自分の人生であり自分の体だか ら自分で決めたら良い」は間違いです。「自分の人生ではありません・自分の体で もありません・自分で決められるほど人間は聖なる清い存在でもありません!」 特に学生時代は物事の正しい判断が出来ません。いや社会人になってもなかなか 出来ないのではないでしょうか? ※今世間は、ある俳優同士の不倫問題で騒いでいます! 聖書の言葉「あなた方の体は聖霊(神様)の宮であり、もはや自分のものでは ない事を知らないのですか?」 子供だけでなく大人も「聖書に立った性教育」が重要であり、必須課題である事は 間違いないと思います。 |
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歴史的事実の書物である聖書 | |
聖書は全て歴史的事実の書物である。例えば旧約聖書に記されているノアの箱舟 の出来事は、今から約5000年前の出来事である。聖書によれば、40日40夜の 大雨によって大洪水が発生したが、ノアが作った箱舟の中に入ったノア一家8人だけ が、大洪水から救われる事ができた。やがて箱舟はアララテ山の頂上に止まったと 聖書に書いてある。これは現在のトルコ地方で今でもアララテ山がある。 標高4000m程の高い山であるが、歴史的にノアの箱舟の残骸も見つかっている。 先月(2025年3月)も専門家チームが、アララテ山の頂上から岩石と土壌のサン プルを採取してイスタンブール工科大学で調査した所、「粘土のような物質・海洋 蓄積物と魚介類の残骸が含まれている痕跡」を見つけ出した。通常、標高4000m 地点に「海洋蓄積物と魚介類の残骸」があるはずがない。それらは海に生息する 生き物であるからだ。つまり過去に大洪水による大災害が起こった事の立派な証拠 であると結論付けられている。更に頂上付近の地層の形が、ノアの箱舟の形に似て いる事も歴史的事実である事を物語っており、その大きさ(横幅・縦幅・高さ)も 聖書に記された大きさとほぼ同じである事も本当に驚きである。 イエス・キリストの存在と十字架の死も歴史的事実である。問題は「復活」は? 果たして歴史的事実であるのか?が大きな争点であるが、復活も事実である。復活 されたイエス・キリストに出会った当時の人は500人以上、そして聖書以外の古代 文献にも「キリストについて(復活を含む)」の多くの証言が残されている。 更にイエス・キリストの12人の弟子たちの中で「11人」は、殉教の死を遂げて いる。なぜなら「キリストは甦った」と主張し続けたからである。実はキリストの 弟子たちが、墓の中からキリストの遺体を盗んで甦ったように見せ掛けたのでは? と言う推論も成されてきた。しかし!もし本当に弟子たちが、復活したように見せ 掛けた嘘の作り話であるならば「弟子たちが殉教の死」を選ぶはずがない。 嘘の作り話の為に「自分の命を捧げる人は誰もいないはずである。」いや?もし かしたら一人や二人はいるかもしれない?しかし、キリストの為に命を掛けた人物 は弟子たちだけではない!この2000年の歴史の中で「キリスト教弾圧」は何度も 繰り返されてきたが、多くのクリスチャンが「命懸けで信仰を死守」して来た事も 事実である。復活された生きておられるイエス・キリストに出会ったクリスチャン も世界中に存在する。私(小林光信)もその中の一人である!誰が信じなくても、 誰が否定しても「イエス・キリスト」は生ける神様であられる!と断言できる! キリストは復活された日の夕方、復活された栄光の体で弟子たちにご自分を表さ れた。そして恐れに満ちた弟子たちの心に平安を与えて下さった。キリストは次の ように語っている。「私が与える平安は世が与えるものとは異なる。」キリストが 与えて下さる平安は、本物の揺るがない平安である!そして私たちにもその平安を 与えて下さる。 それは、私たちの「過去・現在・将来」に対しての揺るがない平安である。 過去を引きずりながら「持ち越し苦労」していませんか?持ち越し苦労の中で最も 私たちの心に悪影響を与えるのが「罪責感」ではないでしょうか。 日々の生活の中で多くの重荷を背負って「現在の苦労」をしていませんか?特に 現代は、不安にさせる材料と恐れさせる出来事が、余りにも多い時代ではないで しょうか? 将来に希望を見いだせずに「取り越し苦労」していませんか?目に見えない将来に 対して心配になり思い煩いながら悲観的な思いに押し潰されそうになって苦労して いませんか?(物価高で年金だけではもはや生きて行けない時代です・・・) でも知って欲しいです!イエス・キリストは、私たちの「持ち越し苦労・現在の 苦労・取り越し苦労(過去・現在・将来)」に平安を与えて下さる生ける真の神様 であり救い主であられる事を!あなたの存在も日々の生活もこれからの人生も更に 死後の世界も「保障」して下さる方がおられます!その方は「死の力を打ち破って 甦られた生けるキリスト」です!その方は、あなたの事をその他大勢の中に埋もれ てしまう小さな存在のように扱わず、あなた個人を愛して・あなた個人を忘れずに 覚えていて下さり、特別な存在として関わって下さる神様であられます! |
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最後まで十字架を背負われた方 | |
今週は、キリスト教会暦で受難週を迎えている。イエスキリストが十字架に架から れるまでの苦悩を思い起こす大切な一週間。金曜日が受難日、すなわち十字架刑が 執行された日。でも不思議な事に英語では「Good Friday」と表現する。えっ? 良い金曜日?なぜ亡くなられた日が、Goodなのか?ここには深い意味がある。 イエスキリストは、三つの領域で苦悩を経験された。 @「霊の領域」 霊と聞くと大半の人が、お決まりのイメージを抱いてしまうようだ。「心霊現象・ 心霊写真」などに出て来る不吉な霊魂・・・?これは間違いなくテレビの影響から 来ている先入観と偏見である。霊能者?なる怪しい人間が「これは死者の呪いの霊 です?」(なんのこっちゃ?)そこには何の根拠(教典教義)が無いにも関わらず 多くの人が信じてしまっているのではないだろうか? 正しい情報を得る必要がある!全世界のベストセラーであり、神様の言葉である 聖書の教えによるならば、霊とは「目に見えない神様と人間との関係性」を表して いる。 神様に創造された人間は「霊・心・体」の三つの領域で一人の人格を持つ生き者と されている。体には五覚(視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚」が備わっていて「世界 意識(人間意識)」を持つ器官である。 心(魂)は「知性・感情・意志」が備わっていて「自己意識」を持つ器官である。 ※「五覚は人間を意識・心(魂)は自己を意識」している!それに対して・・・ では目に見えない神様を意識する器官は何であるのか?それが霊である。「霊覚」 と表現すれば分かり易い。人間の最も中心にあるのが「霊の領域」で神様を意識 する器官である。 ところが人間は、神様の前に罪を犯して「霊が死んで機能不全」に陥ったので神様 がわからなくなってしまった。しかし霊の領域が消えて無くなったわけではないの で、人間は誰でも見失った神様を捜し求めている。それが、何でも拝む対象にして ご利益を求める信仰にすり替わってしまっている。(これが罪なのである。) イエス様は、永遠の始めから終わりに至るまで神様であられるはずであったのに、 その方が、私たちの身代わりに罪人とされて死ぬと言う事は、イエス様も霊の領域 が死んで機能しなくなり、神様であられた方が神様で無くなる事を意味している。 イエス様にとって最大の苦悩であったはずである。 A「心(魂)の領域」 イエス様は、神様でありながら同時に私たちと全く同じ人間でもあられた。人格が あり心を持っておられた。その方が、同胞のユダヤ人からも見捨てられて弟子たち からも裏切り行為を受けた。一番弟子であった「ペテロ」に至っては、十字架前日 に「他の弟子が裏切っても私は死んでも裏切らない」と豪語していたにも関わらず 見事に3回も否定して裏切ってしまったのである。 人々から嘲られ・偏見と誹謗中傷・ペテン師扱いを受け・でっちあげられた裁判 に掛けられて罪人扱いされ・十字架上でイエス様の頭の上に掲げられた罪状書きは 「ユダヤの王」と言う侮辱してバカにする酷い行為を受けられた。そして十字架上 では、全裸で「裸の王様」とされて死んで行かれた。本当に心底辛い経験を通って 下さったのである。 B「体の領域」 メルギブソン監督の映画「パッション」にも描かれているが、イエス様は背中に 39回の鞭を受けられた。この鞭の先には動物の尖った骨などが複数付けられていて 体が裂けていく。40回打ったら死んでしまう鞭打ち刑を一歩手前の39回も受けて 下さった。イエス様の体は、ボロボロに避けていたはずである。頭にいばらの冠・ 両手両足は五寸釘で貫かれ・しかも即死はできない。ジワジワと痛みが増して悶絶 しながら死んでいかなければならない。まさに十字架刑とは、最も悲惨で恐怖しか ない処刑の道具であった。 クリスチャンであり「まばたきの詩人」と言われた水野源三さんと言う方が、 次のような詩を残しておられます。 「私がいる」 ナザレのイエスを 十字架に架けよと 要求した人・許可した人・執行した人 それらの人の中に私がいる 「要求した人・許可した人・執行した人」これらの人は、直接的には2000年前 の当時、実際にいたそれぞれの歴史的事実の人々である。しかし水野源三さんは、 これらの人々の中に「自分もいる・私もその一人だ!」と詩っているのである。 私たちの罪が、神様の独り子イエスキリストを十字架に釘付けにした。イエス様 は、私たちの罪を背負って十字架に釘付けになり身代わりに罪の刑罰である死を 身を持って経験して下さった。皆さんに知って欲しい!あなたの為に命を捧げて 下さった方がおられる!あなたの為に命懸けで愛を表して下さった方がおられる! イエスキリストは、死んで終わりではない。人類が避けて通れない死の呪いの力 を打ち破って甦られた生ける神様であられる!復活に繋がる死であるからこそ、 「Good Friday」と表現するのである! |
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最大の敵は自分の内側に存在する | |
新年度が始まり、新卒で入社して僅か1週間程度で離職してしまう若者(社会人) が増加傾向にあるそうです。しかも当事者が、自分で退職届を提出して責任を果た すのではなく退職代行サービスなる会社(人々)が、代理人となって代わりに退職 の意向を伝えて退職する・・・本当に時代は変わってしまいました。 そこには様々な理由があるようで「事前説明と異なる仕事内容だった・上司から パワハラを受けた・人間関係がうまくいかない」など確かにありがちな事かもしれ ませんが、しかしそこには許容範囲と言う目に見えない基準を両者間で設ける必要 もあると思います。そして物事を許容していく心を養う事が、最重要課題ではない でしょうか?なんでもかんでも杓子定規(頭が固くて融通が効かない心)で計って しまうと問題は幾らでも湧いて出て来ます。そして結果的には、どこの世界に行っ てもやって行けない事にもなり兼ねません。願ったり叶ったりの職場など絶対に あり得ないからです。 人権意識が高くハラスメントに対しては厳正に処分する傾向になりつつある時代、 個人の有り方は、その人の自由だからその人の生き方を尊重して互いに認め合い、 受け入れ合いましょう!確かに大切な事です。でも注意も必要です。何でもかん でも個人の自由にしてしまうと、それを否定する他者は「敵になり排除する対象」 にもなっていきます。「渡る世間は鬼ばかり」をちょっと変化させて「渡る世間は 敵ばかり」と相対する多くの人間が、敵対する関係にもなっていきます。確かに それも事実であって、かつては「安全大国日本」であったのに今や「犯罪大国日本」 になってありとあらゆる所に「敵」が潜んでいて危険と隣合わせで生きていかなけ ればなりません。だから「自分で自分を守らなければならない!」 でも本当に「敵は外側だけに存在する」のでしょうか?人間は、自分の内側を省み なくて本当に良いのでしょうか?例えば、SNSによる過剰なほどの誹謗中傷の問題 は、多くの場合「不特定多数の人々が一人の人を攻撃する」と言う形で浮き彫りに されています。この不特定多数の方の心にあるものは何でしょうか?「正義感?・ 自称警察?・不満心・承認欲求?・嫉妬心?・憂さ晴らし?」 それがもし仮に正義感だったとしても残念ながら人間の心の中に「絶対的な正義」 はあり得ません。ですから自分の偏った正義感が相手を貶める事にもなり兼ねない のです。冤罪事件になるケースでありがちなのは「先に言った者勝ち」な所があり、 「痴漢」などは「言われた者は犯罪者」と一方的に決めつけられるケースもある ようです。 ※ちなみに私はある時、教会に来ていた方(ブラジル人)と音信不通になって、 その方を探す為にあるアパートで探し回っていた所、不審者で警察に通報された事 がありました。もちろん私は不審者ではありません!警察官に説明をして誤解は 解けましたが、それでも「不審者」と決めつけた目で見られたのも事実です。 そんな「言った者勝ち」の世界が、SNS上で平然と展開されているのです! ドラマ相棒の杉下右京氏は、刑法(法律)に基づく絶対的正義感を持って悪を 成敗してくれます(最後に犯人に対して怒りのメッセージを語る場面があります) が、でも厳密に言えば、法律でさえ不完全な人間が決めたものであり、時代と共に 変わってしまうものでもあります。つまり絶対的なものでも不変的なものでも無い と言う事です。特に道徳倫理感は、時代と共に大きく変化して来ました。 ちなみに刑法(法律)とは、人間が法律に触れる行為を犯した後の「処罰対象者に 関係する規範」を表すものです。もし人殺しをすれば、○○と言う刑罰が課せられ ます!と言う規範です。つまり刑法(法律)には「人を殺してはいけない」とは 書かれていないのです。あくまで人殺しに関する外敵規範を表しているのが、刑法 (法律)であって「なぜ?人を殺してはいけないのか?」と言う問い掛けに刑法 (法律)でさえ答えを出す事が出来ないのです。 では人間は、どうすれば「人殺しをしてはいけない」と言う意識を持つように なるのでしょうか?それは外敵規範ではなく「内的規範」です。自分の心の中で 「人を傷つける事・人を責める事・人を殺す事・それはダメ!」と言う自分の内側 に響く心の声だけが、自分を自制させる力となるのです。つまり最大の敵は外側に 存在するのではなく、実は自分の内側に「最大の敵が存在している」のです。 これが聖書が語る「罪」の問題です。 イエスキリストが、こんな話をされました。「あなたは人の塵(小さなゴミ) には気が付いて取らせて下さいと言うが、自分の目の中にある梁(大きなゴミ) には全く気が付いていない。まず自分の目の中から梁(大きなゴミ)を取り除き なさい」 つまり自分の内側に大きな問題があるから人の中にある小さな問題も気になって 人を責め始めるんだ!と教えて下さったのです。まず自分の内側にある問題から 解決してごらん!と。 神様が定めた絶対的で不変的な基準が「聖書」です。人間は、神様の基準に背い た「罪の性質」を持つ「罪人」です。この罪の性質は残念ながら「躾」が全く通用 しません。罪の性質を持つ自分の心を自分でコントロールする事ができない弱い 存在、それが人間にとっての最大の問題なのです。もちろん「修行や鍛錬」で少し はコントロールできるかもしれませんが、神様の基準に従って完全にコントロール する事は絶対に不可能なのです。 聖書が扱っている「救い」とは、この罪の問題からの救いです。イエスキリスト の十字架の死に罪の問題解決があります。そして復活(イースター)に新しい心に 生まれ変わって生きる愛と喜びと希望の人生が保障されています。あなたもまず、 自分の内面を見つめて内面にある最大の敵と向き合い、自分の心を省みてはいかが でしょうか?「愛せない自分が・赦せない自分が・自己中心的な自分が・変えられ 続けていく恵みの世界」が聖書の中に約束されています! |
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人間の心を映し出す不思議な鏡(かがみ) | |
人間の外見(姿)は、鏡を見れば分かります。鏡は、ありのままの姿をそのまんま 反映してくれる実に正直で嘘偽りがない有り難い物です。しかし、それゆえに悩んで しまう方も多くいるかもしれません。気になって意識する程度から始まり、比較競争 の罠に陥って劣等感(優越感も劣等感の裏返し)を持ち、やがて心の病に侵されて しまう可能性もあり、実際に心の病を発症する人も現実にいるかと思います。その ような意味では、外見(姿)を映し出す鏡の他に、内面(心)を映し出す鏡も必要な のではないでしょうか? 有名な「白雪姫」の魔法の鏡は、人間の内面をよく映し出していると思います。 「鏡よ鏡よ鏡さん・世界で一番美しいのはだぁれ?」と王妃が尋ねます。すると魔法 の鏡が「それは王妃様です」と応えてくれます。ある時期まで王妃は、魔法の鏡との やりとりの中で「自分の美しさを確認しつつ自分の美しさに酔いしれる事」が出来ま した。 ところが!「白雪姫」が成長して7歳になった頃、突然、魔法の鏡が今までとは 異なる事を言い出すのです。「それは白雪姫です・・・!」つまり「王妃様ではあり ません」との非情宣告を受けてしまうのです。王妃にとっては、聞きたくない驚愕の 言葉でありました。そして心の病に侵されて白雪姫殺害計画を企てるのです。 この話の王妃は「継母」ですが、原作では「実母」と言う設定であったと聞いた事 がありますが、どちらにしてもこの魔法の鏡とは実は、王妃自身の心をそのまま反映 していたのではないでしょうか?つまりこう言う事です。ある時期までは、王妃自身 が、世界で一番美しいのは他の誰でもなく自分だと思っていたのです。ところが! 王女である白雪姫が成長していく内に、王妃の心は「もしかすると自分よりも白雪姫 の方が美しいのではないだろうか?」と疑問を感じ始めるのです。でも王妃は、受容 できるはずがありません。「認められない・認めたくない・私の方が・いや私が一番 美しい。」しかし、そう思えば思う程「不安と恐れ」が、心の底から湧いて出て来て しまうのです。 そんな王妃の心の葛藤が、そのまんま魔法の鏡に反映され、とうとう「世界で一番 美しいのは白雪姫です!」と栄光の王座を奪われてしまうのです。私には、そのよう に感じてならないのですが、皆さんは、どのように読まれているでしょうか? 人間のありのままの心をそのまんま映し出す魔法の鏡があったら、人間はもっと 正直に素直に生きる事ができるのではないかと思います。でも残念ながら世の中には ありません。ところが、実はあるんです!魔法のような鏡、それが「聖書」です。 神様からの啓示の言葉である聖書は、人間の心を映し出す鏡と言われています。 「啓示」とは「ベールに覆われているものを明らかにする」と言う意味です。人間の 心は奥が深すぎます。自分でさえ自分の心が、100%分かるわけではないのですから 増して他者の心などわかるはずがありません。 特に日本人は心の中に二人の心が同居しています。「本音さん」と「建前さん」と 言う心です。人間関係の中では「本音さん」は、隠れている場合が多いです。そして 隠されずに表に出て来るのが「建前さん」です。これでは人間関係が難しいのは当然 です。しかし、人間を造られた創造主である神様は、人間の体も心も全部ご存じの方 です。その神様が、人間の心を映し出す鏡の役割をする聖書を万人に書き残して下さ り提供して下さっているのです。 「鏡よ鏡よ鏡さん」のごとく「私の本当の心を教えて下さい」と聖書に尋ねるなら ば、聖書は皆さんのありのままの真実な心(姿)を教えて下さいます。本当の自分・ 等身大の自分を認めて生きる事が、真の自由人としての幸せな生き方であると信じて います! 聖書の言葉「神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と 骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する事が できます。」 |
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景気回復?・経済効果? | |
MLBが日本で開幕した。これによる経済効果が数字で表されている。○○億円? とにかくMLBが、相当な額を儲ける事が出来るようである。MLBの選手は、日本の プロ野球の選手とは比較にならない程に破格の高収入(年収)である。その代表が、 大谷選手である。そして確かに高額な報酬に見合う程の好成績を残しているのも事実 である。そういう意味では、本当に逸材である。 私たちが生きる世界は、ただ存在して生きているだけでは価値がないとされる。 そして多くの場合、人間の値打ちが「お金」で計られるのも事実である。世間の注目 の的は「寝ても覚めても金!」ではないであろうか?政治の世界で求められている事 も「景気回復」である。国民の関心事は「豊さであり」その豊かさ=「繁栄=金」で ある。人々は、物質的に豊かな国(日本)を求めている。 確かにお金は必要である。「お金その物」は決して悪い物ではない。しかし聖書は 明言している。そのお金に「執着する人間・愛着を持つ人間・奴隷となる人間・むさ ぼる人間」つまり貪欲心に満ちた人間の側に問題があるのだと!こんな名言がある。 「お金は良いしもべだが、悪い主人でもある!」イギリスの哲学者・神学者である 「フランシス・ベーコン」の言葉である。 お金は「良いしもべ」となる。お金が、私たち人間の良きしもべとなって、主人で ある私たちに忠実に仕えるしもべの役割を果たしてくれる。これはお金の管理が、 ちゃんと出来る人の事を表している。私たちとお金の関係性が、このような状態に ある時、「お金」は実に有益である。しかし気を付けないと逆転現象も起こり得る。 私たちが「お金のしもべ」になる時、物であるお金が主人となって私たち人間が、 お金に仕える事になる。このような関係性になったら大変。このような状態にある事 を聖書は「お金に束縛された奴隷」だと警告している。 ノルウェーの有名な詩人「アルネガール・ボルグ」の次の詩は、万人に通用して 適用できる人生教訓である。 食物はお金で買えるが 食欲は買えない 薬はお金で買えるが 健康は買えない 寝台(ベッド)はお金で買えるが 安眠は買えない 化粧品はお金で買えるが 美しさは買えない 別荘はお金で買えるが 心地良さは買えない 快楽はお金で買えるが 喜びは買えない 友達はお金で得られても 友情は得られない 使用人はお金で得られても 忠実さは得られない 静かな日々はお金で得られても 平安は得られない この詩は、全て人間の心(内面)に関係する事について歌われている。 人間は自分自身を創造して下さった唯一真の神様を見失ってしまった。それゆえに 人間の心は、その虚しさを埋める為に神様以外のもの=すなわち物質を一番に求める 生き物に成り下がってしまった。だから寝ても覚めても景気回復・経済効果(金金金 ・・・)皆さんは、いかがですか?心の最も奥深く(深層心理)で求めている物は 何ですか?物質を求めるあまり、いつの間にか心に余計な不要物が溜まりに溜まって 「心のメタボリック」に陥ってしまっていないですか? 「お金」は必ず必要な物である。しかし、それが生活の中心となる物ではない。 私たちの存在にとって、そして私たちの人生にとって最も中心となるもの、そして 必要な物、それは唯一真の神様である。それに付随して「お金(物質)」も大切な物 である。これが重要な優先順位である。 人間の心の問題解決は神様から来る。神様が与えて下さる恵みによって得られる。 だからこそ聖書は、物質との関係を優先させるのではなく、神様との関係を最優先に しなさいと語っている。あなたの心に付着した余計な脂肪(不要な物質)が、取り除 かれて真の喜びと平安で満たされますように祝福を祈ります! 聖書の言葉「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて (神様の祝福に加えて)、これらの物(生活の為の必要な物質)は与えられます。」 神様との関係を第一にするならば、全ての必要が神様によって備えられ、与えられて 満たされる!と言う約束の言葉です。 |
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風化させてはいけない | |
2011年3月11日の東日本大震災から14年、あの日、教会も屋根上の十字架塔が ぐらぐらになる損傷を受けた。イエスキリストの十字架の愛と救いを象徴している塔 が、屋根から落ちてしまったら大変であるが、それ以上に大変な事は、もしそれで人 にケガや重症など負わせてしまったらシャレにならない!とりあえずの応急処置とし て牧師が屋根上に乗って四方からロープを巻いて落ちないようにした。命懸けの修復 作業であった。(通常は危険手当をもらえると思う!) 実は、1995年1月17日の阪神大震災も経験していた。まだ聖書学校時代の2年生 の時であったが、兵庫県西宮市の寮に住んでいた。あの時、神戸市と西宮市は、震度 激震7であった。下から突き上げるような経験した事がない大地震だった。聖書学校 はかなり古い建物であったが、それでも倒壊から免れた。(神様感謝します!)でも 周囲の建物の多くは倒壊していた。テレビでよく流れていた「阪神高速の橋が倒れて バスが危うく落ちそうになっていた!」まさにあの近辺に聖書学校が建っていた。 多くの犠牲者が出て自然災害の力と恐ろしさを目の当たりにした。家族や親類・ 友人や知人を失った人も決して少なくない。その痛みと悲しみは計り知れない。 そしてそれを経験した人にしか分からない、言葉に出来ない・言いようもない思いが あるはず。この時期になるとテレビで追悼番組を目にする。残された遺族の思いは 「風化させてはいけない」と言う強い願いである。「愛する存在の尊い命を奪われた 重た過ぎる犠牲を無駄にしたくない・無駄にして欲しくない・二度と同じ失敗を繰り 返してはならない。」しかし、時間と共に少しずつ忘れ去られて風化していってしまう 現実もある。だから「風化させてはいけない・・・」 本来、人間の命とは、それがたった一人の命でさえ、重たくて・尊くて・大切で・ 掛け替えのない命である!そう考えると風化させてはいけないのは当然だと感じる。 次の世代に・後世に・教訓を語り継げていかなければならない。しかし、それとは 裏腹に、自分の存在が突然に消えたとしても、そして自分の命が失われたとしても、 世の中の日常生活は相変わらず何も無かったように過ぎ去り、人々も自分なりの人生 を日々生きて行く!そう思うと「人間の命とは、本当にはかない命」でもあり、何と ちっぽけな存在であろうか?と感じる方もいるかもしれない。でも知って欲しい! 私は牧師として「風化させてはいけない」と思っている事がある。それは2000年 前の出来事であり歴史的事実でもある。イエスキリストが、十字架に釘付けにされて 死なれた事である。私たち人間とイエスキリストの死とは、決して同じではない。 私たち人間(人類)は全ての人が、例外無しにいつの日か?死ななければならない 存在である。永遠に生きる事ができる人間など一人もいない。(もちろん私も!) 私たちは、神様の前に罪を犯して死ぬべき存在となったからである。たとえ死ぬべき 存在であったとしても繰り返し言いますが、人間の命は尊い。しかし、永遠の初め から神様であられたイエスキリストだけは、死ぬべき存在ではありません。そんな 永遠の存在である方が、神様の姿を捨てて私たち人間の身代わりに「死ぬ目的」を 持って人間としてこの世界に来て下さったのです。そしてイエスキリストは、自らの 意志で死ぬ事を選んで死んで下さったのです。 その目的はたった一つ!「皆さんを・私たちを・たった一人の存在であるあなた 自身を」心から愛して永遠の命を与える為に、神様であられる方が「罪の刑罰である 死(死刑)」をその身に背負って受けて下さったのです。死ぬべき存在である人間の 命が尊いのであるならば、死ぬ必要が無い存在であったイエスキリストの命はもっと 尊いはずです。神の御子の永遠の命が犠牲となって捧げられた!そして三日目に復活 された!この十字架の御業は2000年後に生きる現代の私たちにも有効であり、信じ る者に「永遠の命」を与え、罪と死の滅びから救い出して天国へと導いて下さる! これほどの大きな愛と大きな恵みが、全ての人に注がれているのであるならば、 「イエスキリストの身代わりの死・十字架の犠牲の死・甦られた生ける神」を「風化 させていけないはず」です。この愛と救いをあなたにも受け取っていただきたいと 心から願っています。 聖書の言葉「十字架の言葉は滅びに至る人々には愚かであっても救いを受ける私 たちには、神の力です!」 |
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2011年の東日本大震災(十字架塔補修) |
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運命的な出会い? | |
先日、姪っ子の婚約式がありました。東京の某大学を卒業後、神様の働きをする為 に献身をして日本キャンパスクルセードフォークライストと言う学生を対象にして イエスキリストを伝える働きをしている訓練生になりました。その訓練生に指導を する立場にいたスタッフの方と出会って結婚(婚約)まで導かれました。 婚約式の当日、相手の男性に初めて出会ったわけですが、本当に好青年でした。 当然、彼のご両親とも初めて出会ったわけですが、実はなんと!彼のお母さんとは 初対面ではありませんでした。今から37〜8年前に出会っていたのです。私が大学 時代、群馬県で独り暮らしをしていた時、3年間、通ってお世話になっていた教会で 出会っていました!その方は、群馬県には2年ほどしかおらずに東京に引っ越して いかれたので、それ以来の再会でしたので当然、お互いに驚きました。それだけで なく親類同士の関係になったのですから本当に驚きです! こう言う場合、世間一般的には運命的な出会いと言うのかもしれません。運命? とは、人間の意志や力を超えた超自然的力によってもたらされる出来事を表して いるようです。しかし運命とは?実に曖昧な捉え方のようにも感じます。なぜなら もし良い出来事が起こった時に「運命的」と表現すれば、良い事として受け留めら れますが、悪い出来事が起こった時には「運命のいたずらな力に遊ばれている?」 と否定的に捉えてしまうかもしれません。私たちの人生は、そんな訳が分からない 運命の力によって成り立っているのでしょうか?善か?悪か?の判断次第で捉え方 が変わってしまうものが、本当に「超自然的な力を持った運命」なのでしょうか? 例えば、私は結婚式の司式の仕事をして来ましたので、今までに様々なカップル に出会いましたが、100%のカップルと言って良い程にみんな「大安」の日を選ん で結婚式を挙げていました。多くのカップルが「運命的な出会い」であったとか、 「運命の赤い糸で結ばれていた」とか、そんな表現をしていたと思います。結婚 する時には、そんなバラ色に感じるのだと思います。しかし運命のわりには、昨年 の離婚数は過去最多であったようです。そこに至らなくてもうまくいかない夫婦、 家庭内別居、直接的な会話がなくラインなどでやりとりをしている夫婦、そして 不倫や浮気の問題など(もちろんうまくいってる夫婦もいると思いますが・・・) そう考えると「運命」って何もの?なんでしょうか? 聖書信仰に立つクリスチャンは、私のような出会いを経験した時、神様の不思議 な導き(摂理)と表現します。でも神様は、不思議な事だけを導いて下さるのでは ありません。もっと根本的な事を言うならば、私たちの存在も人生も神様の大きな 愛と真実の御手の中に置かれて導かれながら生きる事が出来ると聖書は語っていま す。たとえ自分の目(心)に悪いと思える出来事があったとしても、それも神様の 御手の中での出来事であって「悪い事=悪」とは限らないのです。神様に信頼して 神様のご計画による導きの中で神様は全てを益に変えて下さる!と信じて委ねる事 が出来たならば、どんな状況や環境の中にいたとしても心に平安と希望が与えられ ます。曖昧な運命の力?ではなく私たちを愛して下さる人格を持った神様が、真実 という基準で守り、支え、導いて下さるのです。その行き着く所が、最高のパラダ イスである天国なのです! イエス様が、こんな話をされました。 「5羽の雀が2アサリオン」で売られています。日本的に言えば「5羽の雀が2円」 と言う事です。隣のコーナーでは「2羽の雀が1円」で売られています。本当は、 「倍の2円を出せば倍の4羽」になるわけですが、奥さん持ってけドロボー! 「おまけで1羽サービス」して「雀を5羽にして2円」で販売しているわけです。 こんな商売方法、現代でもありますね!イエス様は、そんな1羽のおまけの雀さえ、 神様の御前に忘れられていない存在だ!と言うのです。1円の価値の中に入らない ようなおまけの雀さえも神様は愛しておられる!と言うのです。であるならば、 雀よりもっと優れた存在である私たち・皆さん一人一人を心から愛して下さる神様 が、偉大な力がある御手の中で人生を導いて下さるのです。 一羽の雀を見て下さい。野に咲く一輪の花を見て下さい。神様の愛を感じ取って いただければ幸いです。 |
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働くほど出てくる問い掛け | |
カンブリア宮殿と言うテレビ番組をご存じでしょうか?世の中の経済・ビジネスを 扱った内容で各界の経営者などが出演してトークする番組です。村上龍氏が進行役を されていますが、ある時、村上氏が興味深い事を語っていました。「仕事をすれば するほどそこに答えが見つかるはずなのに、なぜか問い掛けが出てくる。」そして 「この問いは何の問いなんだろうか?」答えが見つからないと言うコメントでした。 これはアイデンティティに関係する問題だと思います。以前からアメリカでは「ID カード」なるものが各自に発行されていて身分証明書となっていたようですが、日本 でもマイナンバーカードが国民一人一人に発行されるようになりました。これらは、 自分の身分を証明する大切なものです。住所・生年月日・名前などなど「自分は何者 であるのか?」を証明してくれます! しかし、いかがでしょうか?もっと本質的な意味での「私は何者であるのか?」と 言う人間の存在意義・存在価値・存在目的・人生の意味などの根本的な「問い」に ついては、残念ですがマイナンバーカードでは証明してくれません。いや証明する どころか?教えてもくれません。学校でも?・どんなに有名一流大学であっても? これらの問いに対する明確な答えを教えてはくれないのです。 だから人間は「自分は何者であるのか?」と言う問いに対する答えを必死になって 捜し求めているのだと思います。学生は猛勉強して「有名校・一流校」に進学し、 そして「有名企業・一流企業」に就職したその先に「答え」があると思っているかも しれません。又、部活動(運動部)に専念する人も「有名校・一流校」に進学し、 やがてスポーツに専念できる「企業・スポンサー」の元で「好成績・日本記録・世界 記録・オリンピックで金メダル獲得・何連覇もして前人未到の記録を残す!」その先 に「答え」があると思っているかもしれません。又、社会人であれば村上氏が語った ように、必死に働く事によって「答え」が見つかると思っているかもしれません。 ※しかし、現代の若者たちの中には、その「問い」も無ければ「答え」を見つけよう とする探求心もないのかもしれませんが・・・(世代間のギャップは大きい!) しかし!人間の心は、本質的には「自分は何者であるのか?」を捜し求めているの です。聖書に「神は人の心に永遠への思いを与えられた」とあるからです。永遠への 思い?すなわち「永遠の存在=本当の神様・永遠の世界=本当の天国」を捜し求める 心が与えられているのです。でも分からないのです。わからないからこその「問い」 なのです。そしてその問い掛けを埋める為に「世の中の魅力ある物」に手を染めて いく若者たちが増加している現実があります。様々な問題が浮き彫りにされています が、その一つが「ドラッグ(麻薬)」の問題です。有名大学の運動部員の中にも入り 込んでいると報道がありました。芸能界でも、そして実はもっと身近な所にも潜んで いるのかもしれません・・・ ※私の遠い親類にバンドデビューしてボーカルを担当していた人がいました。タモリ のミュージックステーションにも出演した事がありましたが、残念ながらドラッグに 汚染されて引退を余儀なくされました。(今は回復しています!) 今年、世界陸上が東京で開催されます。1991年以来の34年ぶりの開催です。 1991年の東京大会では、私が憧れていた「カール・ルイス」が100mを「9.86」 で走り当時の世界新記録で優勝しました。本当に感動した事を覚えていますが、 そんな私も中学〜大学までの10年間、ひたすら陸上競技に明け暮れた日々でした。 実は、カール・ルイスもクリスチャンです。そのルイスが、ロサンゼルスの教会で こう語りました。「オリンピックの金メダルもいつか色褪せる。でも神との関係は 決して色褪せない。」スーパースターでレジェンドのルイスでさえ、世の中の物は 色褪せて「自分が何ものであるのか?」を保障してはくれず、それは神様との関係 の中に保障されており、それが永遠に残っていくと明言しています。 働けば働くほど「答え」ではなく「問い」が出てくる。この問いに対する答えが、 聖書の中に啓示されています。前回のメッセージで学んだように、人間を含めた全て の被造物は、創造主である神様によって造られました。あなたのアイデンティティを 保障して下さる神様が存在して生きておられます! 聖書の言葉「あなた(神)は人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの 冠をかぶらせました。」 |
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一週間は七日間の起源 | |
一週間は七日間と決まっていますが、誰が決めたのでしょうか?なぜ七日間なので しょうか?なぜ日曜日は休日なのでしょうか?(サービス業が増えた現代は、日曜日 が必ず休日とは限らないと思いますが・・・?) その起源が、聖書に書いてあります。前回学んだように、神様は天地創造の御業を 六日間で成された事が聖書に書いてあります。そして七日目は、神様ご自身が「全て の業を終えて休まれた!」と記されています。神様は六日間働かれて七日目は「安息 された(安息日)」と言う一つのサイクルを神様ご自身が造られました。そして前回 学んだように人間(アダムとエバ)は、六日目の一番最後に創造されて存在するよう になったわけです。つまり人間が生き始めた一日目は=神様にとっての七日目であり 人間はまず安息日から生き始めたと言う事がわかります。決して人間は、仕事する事 や動き回る事、遊ぶ事や趣味活動から始まったのではなかったのです。一週間は七日 間であると言うサイクルを神様が造られました。これがカレンダーの起源です。 安息日?聞きなれない言葉かもしれませんが、ユダヤ教の人々は、今でも土曜日を 安息日として神様を礼拝しています。それに対してキリスト教会は、土曜日ではなく イエス様が復活された日曜日を(安息日=主の日=聖なる日=礼拝する日)として、 教会に集まり神様に礼拝を捧げています。これは基本的に全世界のキリスト教会に 共通している事です。 皆さんにとって日曜日は何の日でしょうか?人によって様々かと思いますが・・・ 「寝る日・遊ぶ日・趣味活動の日・旅行に行く日・家族サービスの日・部活・塾など」 しかし、一週間の始まりの日である日曜日とは本来、生きておられる神様と人間とが お交わりをする(交流する)日なのです。なぜなら神様に創造された人間は、創造主 である神様との関係を土台にして生きる存在であるからです。分かり易く言えば、 「神様と人間との関係が縦の軸」で、そして「人間同士の社会生活が横の軸」です。 ではどちらの軸が大切なのでしょうか?昔の遊具「コマ」を見れば一目瞭然です。 (最近はコマで遊ぶ人はいないかもしれません。ベーゴマなんて知らないかも? 息子が小学生の頃はベイブレードが流行っていた!) コマを回すときに重要なのが「縦の軸」です。これが垂直に真っすぐ、更にしっかり していないとコマはよく回りません。横の軸が不安定になって回転しないのです。 これは人間も同じ事が言えます。人間関係が難しい時代、多くの人が人間関係に 悩んでいるようです。小学生時代から「不登校」・「皆と同じクラスに居られない ので特別学級で過ごす」など、人間同士の社会生活に適応できない子供たち・引き こもる大人たちも増えている現実があります。心の中が不安定になり横の関係(横の 回転)がうまく行かない(回らない)のです。これらの原因は、どこにあるのか? もちろん様々な要因もあると思いますが、聖書は、その根本的原因は「縦の軸である 神様との関係が無いからだ!」と明言しています。土台となる縦の軸を見失っている からなのです。だからこそ現代は生きる意味を見失った時代とも言われています。 皆さんはいかがでしょうか?人生において決して揺るがない軸となるものを持って おられるでしょうか?この軸は、世の中との関係では手に入れる事が出来ません。 「学歴・肩書・功績実績・名誉・財産」これらのものは、横の軸を保障する揺るが ない縦の軸にはなりえないものであり、絶対的な存在との関係がどうしても必要に なります。その縦の軸となるものが、生ける真の神様と自分自身との関係性の中に 約束されています。そして教会では「神様との自分との関係を築く為」に週の始め である日曜日を開放して「礼拝」を提供しているのです。神様との関係を築けば築く ほど心の中から「喜び・平安・愛・生きる力・希望」が湧き上がってくるのです! 聖書の言葉「彼(イエスキリスト)に信頼する者は、決して失望する事はない」 |
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人間創造の神秘 | |
聖書の一番最初のページは、創世記1章1節「初めに神が天と地を創造した」です。 聖書は「神がいるか?いないのか?」を論じる書物ではありません。聖書は神様から の啓示の書物(かっこよく言えばラブレター)であり、初めに神ありき!から始まり ます。聖書は、永遠の初めから神様が存在しておられた!と宣言しているのです。 その神様の起源や存在を限界ある人間の小さな頭で、どんなに考えても解明できる はずがありません。つまり神様とは「証明する対象ではなく・信じる対象にある」と 言う事です。ですから信じなければ神様の存在はわかりません。でも信じてみると 不思議ですが、神様の存在がわかるようになるのです。デンマークの哲学者でクリス チャンであったキルケゴールは、「人間とは、ただ神の御前にへりくだって神の存在 を認めて信じるだけに過ぎない存在である」と語っています。 永遠の初めから神様が存在される事を認めると「創造論」が成り立ちます。神様は、 六日間でこの世界を創造されました。そして六日目の一番最後に創造されたのが、 「人間(アダムとエバ)」でした。つまり神様が六日間で創造された「エデンの園」 には、人間が生きていく為に必要な全ての良い物が、全て備えられ満ち溢れていたの です。ですから最初の人(アダムとエバ)は、エデンの園で神様が創造された御業の 全てを喜び楽しみながら生きる事が出来たのです。ここに神様の私たち人間に対する 大きな愛が示されています! さて神様は、まず「男性のアダム」を創造されました。その様子が聖書に記されて います。「神である主は、土地の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻にいのちの息を 吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。(創世記2:7)」 まず第一に「土」からアダムの肉体を造られました。人間の肉体は、土で出来ている からこそ「土」に戻っていくのです。(聖書の時代は土葬でした)この段階でアダム は、まだ生きていませんでした。 第二に、神様はアダムの鼻から「命の息(神様の命)」を吹き込まれました。神様の 命が吹き込まれ、この命によって人間は初めて生き物となったのです。ですから人間 は、猿が持っていた動物の命が進化して、それが人間を生かす命となったのではない と言う事です。人間を生かす根本的な命とは、神様が持っておられる命なのです! 第三に、神様の命が吹き込まれた結果として「人間は生きもの」となった。つまり 人格(魂)を持つ生きものとなったのです。この魂の中に「知性・感情・意志」と 言う「自分で思い考える知性・感じる事ができる感情・自由に決断する意志」が、 備えられたのです。つまり人間は神様に造られたロボットではなく人格を持つ尊厳 ある生きものであり、一人一人が人権を持つ生きものでもあるのです。 最初の人アダムは、神様の命を受けて神様に似せられて創造された傑作品でした。 一番重要なポイントは、人格(魂)を持つ生きものとされた人間(アダム)は、与え られた「知性・感情・意志」を最大限に活用しながら絶えず「神様を思い考え・神様 を心から愛し・自分の自由意志で神様を信じて生きる事を選択しながら生きる存在」 であったと言う事です。それは神様に創造された人間が、神様との関係を土台として 生きる為であり、神様との関係性の中で全てが成り立っていく為であったからです。 相対的な人間は、誰も単体(一人)で生きて行く事が出来ない存在です。そこに必ず 相対する存在が必要です。そして人間がまず相対しなければならない存在、それが! 「創造主であり絶対的な存在である神様である!」と言う事です。 次に女性のエバが創造されました。不思議な事ですが(面白い事ですが)、エバは アダムのように土から造られたのではなく、神様はアダムのあばら骨(肋骨)から 女性のエバを造られました。ちなみにあばら骨の役割は、大切な内臓(臓器)を守る 働きをしています。聖書には、男性のアダムにとって最も相応しい「助け手」が、 女性のエバであったと記されています。えっ?女性のエバが男性アダムの助け手? ちょっと突っ込まれそうなメッセージかもしれません。この原語(ヘブル語)の本来 の意味は「対等に向き合えるパートナー」と言う意味です。聖書は、決して男尊女卑 を主張しているのではありません。神様の前に「男性も女性」も人格は同権(同等) であり対等なのです。価値は全く変わらないので、ご安心を・・・! しかし、聖書は「男性と女性」の「立場の違い・役割の違い」も語っています。 このメッセージの中で詳細は語りませんが、土から創造された男性アダムとあばら骨 から創造された女性エバは、このような関係性の中で「夫婦として一心同体」なの です。これは現代の夫婦関係も全く同じです。ですからキリスト教式の結婚式で宣言 する通り、だからこそ「神が結び合わせた夫婦を決して引き離してはならない!」の です。一心同体(心と体において結合されて一つ)とされるならば、性的に乱れた 現代において多くの異性と性交渉する事は、様々な人格と結合する事であって実は 恐ろしい事なのです。もしその過程を経て「結婚して夫婦」になった所で、どうして その関係性が上手くいくのでしょうか?そしてそれは様々な病気の感染リスクにも 繋がります。若者たちの間に「梅毒」が、流行している現実・・・だからこそ性を 重んじて大切にする!これは聖書の原則であり幸せな家庭を築く原則でもあり、 これは決して古い考え方ではなく、神様が人間を守る為に定めた愛の規定なのです! ※成人式で多くの旧友と再会するのは楽しい事ですが、既にシングルマザーの人や 性交渉の経験豊富な人、そしてタバコを吸っている人などなど、決して少なくは無い ようです。「信じて頼るもの・生きる基準となるもの・人生を正しく導く指針となる もの」が無ければ、人間は世の中の価値観や流行に従って生きるだけになってしまい ます。子育て中の皆さん!確実で揺るがない幸福な人生を次世代の子供たちに、共に 継承して行きたいと心から願っています。 神様の祝福が、読んで下さった皆さんの上に豊かにありますようにお祈りします。 |
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世界終末時計の時刻 | |
世界終末時計をご存じでしょうか?宗教と言うフィルターを通して終末と聞くと、 「怪しい・危ない」そんなイメージを持つかもしれませんが、この時計は宗教関係者 が運営管理しているわけではありません。この時計はアメリカ科学誌「原子力科学者 会報」が、核戦争に対して警告する目的で1947年に初めて時が刻まれました。 やがて核問題に加え「気候変動・自然災害・生物兵器・AI」等も含まれるようになり 地球環境の総合的な観点から判断して、毎年1月に時が刻まれるようになりました。 (実際にこの時計の針が、動いているわけではありません!) 2024年の時点で時計の針は、残り「90秒」でした。ちなみに1947年の当初は、 「7分」からスタート!そして最新の残り時間が発表されました。世界終末まで残り 「89秒」です。つまり1秒だけ時を刻み深刻な状況へと進んでいると言う判断が、 成されました。世界終末時計を「くだらない」と評価する人もいるようですが、 皆さんは、この現実をどのように捉えているでしょうか? 「世の終わり?・終末?・人類滅亡?」これらは全て空想話であり、机上の空論なの でしょうか? 例えば、日本の少子高齢化問題は深刻です。高齢化社会を支える若者達が出生率の 関係もあり減少しており、やがて若い世代よりも高齢者の方が多くなる逆転現象が、 確実に起こりつつあります。まさに日本国民が消滅する現実が迫りつつあるのです。 それだけではありません。 現代は、地球上から「土」が消えつつあるのです。土?そんなもん?と言う感じかも しれませんが、土が無ければ作物が出来ない。作物ができなければ生きる糧を失って しまうのです。「たかが土・されど土」その土を人類が現代の偉大な科学力を使った としても作り出す事ができないのです。肥料は作れても土は作れない現実・・・ その他、温暖化で平均気温そのものが上昇して北極の氷が溶けていたり、絶対に溶け ない永久凍土も融解していて未知のウイルスが放出される可能性があったり、熱波に よって40度を越す灼熱の地獄の酷暑地域が増えたり、などなど・・・ コロナウイルス一つを見ても世界中が大混乱に陥って、未だに悪影響が出ている中 で、誰が「地球は大丈夫!世界の終末などあり得ない!人類滅亡など宗教臭くてアホ らしい!」と言う事ができるのでしょうか? 聖書には、イエスキリストに関係する預言が「300箇所以上」書かれています。 イエス様が降誕される前から既に語られていた預言(やがて降誕される事・どこで 産まれるのかなど)、そしてイエス様が降誕されてイエス様ご自身が語られた預言の 両方の預言が、聖書に書かれてあります。 これらの預言が実現して、預言の成就としてイエス様は降誕されました。300以上の 預言がことごとく的中する確率は、計算すると天文学的数字になってしまいます。 その確率を例えて言うならば・・・ 「地球に穴を空けてその中に100円玉を詰め込み、その中にある一枚の100円玉だけ にしるしを付けます。(何枚の100円玉になるのか???)そして地球上のどこから でも良いので手を突っ込んで、たった一回だけで【しるしが付いたたった一枚の100 円玉】を引き当てる!」程の信じられないような確率なのです。 人間が語った当てにならない言葉ではなく神様の生ける言葉である聖書の預言だから こそ見事に実現してきたのです。 しかし、まだ聖書に書かれた預言が成就していない事柄もあります。それが、終末 預言です。2000年前に救い主としてこの世界に降誕されたイエス様は、十字架で 死なれた後に復活されました。今も生きておられるメシヤであられます。そして 聖書の預言によれば「イエスキリストはもう一度、この世界に戻って来られます!」 それを「再臨」と言います。その時イエス様は、救い主としてではなく「裁き主」と して来られます。全ての罪を裁く為に戻って来られる「預言」です。 では、どのように備えれば良いのでしょうか?まさに「信じる者は救われる!」の です。しかし「信じない者は滅びてしまうのです。」ここまで読んで下さった方! ありがとうございます。でも「怪しいですか?・危険な発想ですか?」 いや人類滅亡は確実に迫りつつあります。では、イエス様がいつ再臨されるのか? 気になると思いますが、残念ながら聖書に「明確な日時」は書いてありません。 しかしです!イエス様が再臨される時、世の中に何が起こっているのか!その前兆が ちゃんと預言されています。まさに! 「現代社会風土・社会情勢・自然災害・戦争の問題・SNS上に溢れかえる人間の心の 問題」など、聖書の預言どおりに悪い状況へと整いつつあるのです。 こんな時代だからこそ「本当に大切なもの・本当に頼るべきもの・絶対的なもの・ 不変的なもの」を求めてみてはいかがでしょうか? 聖書は語っています。 「私たちは、目に見えるものにではなく、目に見えないものにこそ目を留めます。 目に見えるものは一時的であり、目に見えないものはいつまでも続くからです。」 「この天地は滅びます。しかし、イエスキリストの言葉は決して滅びません。」 |
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本当の幸せとは? | |
テレビのCMの中で語られている言葉を紹介します。 ※「幸せの形に正解がない時代。自分で人生を選ぶ事。それが掛け替えのない豊かさ なのです。」こんなCM、ご覧になった事があるかもしれません。 ●「幸せの形に正解がない時代」 現代ほど多種多様な生き方(多様性が求められている時代)は、無いと思います。 人間の数だけ「価値観」があるのと同様に、人間の数だけ「ライフスタイル」がある のではないでしょうか?つまり「自分の生き方」は、人によってみんな違うという事 です。かつての昭和時代の日本は、そうでは無かったように思います。高度経済成長 時代の右肩上がりの生活環境の中で、昭和時代を代表する「三種の神器」と言われた 電化製品がありました。「冷蔵庫・洗濯機・テレビ(当初は掃除機)」です。 これらの電化製品を手にする事が「幸せの象徴」であり「世間並みの幸福感」でも ありました。元来の日本人は「平均」を好む国民性であり「人を見る事」が、日本の 文化でもあったので「三種の神器」が、一つの基準であったのだと思います。そして これらの物で「それなりの幸福感」があった事も事実だと思います。 しかし、現代は違います。食物廃棄量世界一の豊か過ぎる日本においては、もはや 「冷蔵庫・洗濯機・テレビ」は、幸せの基準ではなくありふれた当たり前の物に成り 下がってしまったのです。物質があふれかえった現代は、「人並や平均」では物足り ずに不満さえ感じるようになってしまったのです。「人と同じでは嫌・人とは違う方 が良い。」生活環境の変化と共に人間の心や価値観も変異して、人とは違ったものを 追求するようになりました。それが子供につける名前(キラキラネーム)に表されて いるのではないでしょうか?もちろんそれが「個性」なのだと思いますが・・・ さて最初に戻りますが「幸せの形に正解がない時代。」この問い掛けは、最初から 間違っているように感じます。もともと人間の幸福を「物(物質)」に求める事は、 最初からそこに正解は無かったのだと思います。なぜなら人間は、物質で満足する ようには造られていないからです。数学者でクリスチャンだったパスカルが、こんな 言葉を語りました。「人間の心には神にしか埋める事ができない空洞がある!」 人間の心の中に穴がポッカリと空いていて「それは神様にしか埋める事ができない 穴だ」とパスカルは語ったのです。これは聖書を読まないとわからない穴です。人間 にとってどうしても必要な存在である唯一の神様を失ってしまったゆえに空いた穴の 事であり、この穴を空けた原因が「罪」という問題です。聖書が語る罪とは、人間の 自己中心的な心や生き方を表しています。罪によって神様を見失い、人生の迷子者に なった全ての人間が、この穴を埋める努力を人生の中で行っているのです。 ところが、神様にしか埋める事ができない穴を必死になって「物(物質)」で埋め ようとしても埋まるはずがありません。でも穴が空いたままでは、人間の心は空しい だけでそのままでは満たされません。でも何を所有しても埋まらない・・・でも何と かして埋めたい・・・もっともっと・・・この繰り返しの中で底無し沼状態に陥って しまったのが、現代社会の大きな問題であり闇ではないでしょうか? イエス様も言われました。「人はたとえ全世界を手に入れてもまことの命を失ったら 何の得があろうか?」つまり人の欲求(欲望)は「全世界を手に入れたい」ほどの 底無し沼の状態に陥っているのだと!罪を犯してまことの命を失って神様がわから なくなった結果、人間の心(魂)は自分の心を本当に満たして豊かにしてくれる存在 を人生の中で捜し求めているのです。それが、それぞれの人生の選択でありそれぞれ の生き方(ライフスタイル)に表されているのではないでしょうか? 皆さんは、正解が見つかりましたか・・・? 心の中にポッカリと空いている穴を埋める事が出来ましたか・・・? 多くの人が、人生の中で見つけようとしても見つけられないからこそ現代は(特に 若者は)、「生きる意味を失った時代」と言われているのではないでしょうか? 人間の幸せ(幸福)の形の正解、それは聖書の中に明確に記されています。 神様を信じて神様と繋がって、神様との関係性を土台にして神様と共に人生を生きる ならば、人間の幸せ(幸福)を神様が保障して下さるのです。その神様と繋がる為に イエス様は、死の力を打ち破って甦られました。そして信じる者を罪から救い出し、 「まことの命=神様の命=永遠の命=復活の命」を与えて新しく生まれ変わらせて 下さり、ポッカリと空いた穴を神様が埋めて心を満たして下さるのです! |
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Being(存在)と Doing(行い)のどちらが土台か? | |
世の中には固定化された価値観がある。それが当然の生き方や人生観となって成り 立つ世の中である。それがBeing(存在)と Doing(行い)の関係性によく表されて いる。世の中はBeing(存在)だけ、つまり存在しているだけでは価値が無い。そこ には間違いなく付加価値が求められる。それが Doing(行い)である。 「何が出来る?・今までどんな功績や実績を残して来た?・どんな資格?・免許?・ 学歴は?・肩書や役職は?・収入は?・財産は?」これらのものは全てDoingに関係 する物であり、自分のBeing(存在)をこれらのdoing(行い)で覆って自分の存在 価値を証明しなければならない。これが間違いなく当たり前のように、世の中に蔓延 している価値観である。 そこから競争社会が生み出され、「勝ち組⇔負け組・優れている⇔劣っている・ 上流階級⇔下流階級など」人間をランク付けしてその人の値打ち(価値)を判断して いる。存在しているだけでは値打ちが無い!これが世の中の考え方である。 例えばアパート時代、我が家は「トヨタスターレット(グランツァ)のターボ車」に 乗っていた。近所には一戸建てが建ち並び、その駐車場には良い車が駐車してあった。 ある時、知り合いになった一戸建ての方と路上でおしゃべりしていたらその子供が、 突然、我が家の車を指差して「ちっこい車!」と言い放った。すると子供の母親が、 気まずそうに「こら!そんな事は言っちゃダメ!」と慌ててたしなめていた。 おそらく親が「大きい車とか?小さい車とか?」で優劣を判断して言葉で語っていた ので、小さな子供も「それをそのまま口に出して言い放った」のだと思う。でも負け 惜しみで言う訳ではないが、「私はそんな価値観では生きていないので痛くも痒くも 無かった!」人間の価値は、持ち物なんかで絶対に決まらないと断言できる!これが 新しい価値観で生きる信仰の素晴らしさである! どんな家に住み、どんな車に乗っているのか、これらは全て「Being(存在)」に 付加価値を付けて自分の存在価値を高めようとするdoing(行い)」に関係する事で ある。 ※しかし最近、やたら高級車「アルファード」を見るようになったのは気のせいか? 我が家では、とても乗れん・・・! この価値観が顕著に表されているのが、お隣の韓国である。超競争社会であり学歴 社会でもあり、勝ち組とされる韓国でトップ10に入る富裕層の大財閥が、韓国経済の 大半を牛耳っている。つまり中間層と低所得層のいる多くの韓国人は負け組とされて しまうので必然的に超競争社会になっていく。しかし自殺者も多いのが、韓国社会の 問題でもある。 これは日本も例外ではないはずであるが、多くの家々が大切な子供たちを競争社会の 中に引きずり込んでいるのではないでしょうか?「習い事・塾・お受験・高学歴・ 一流企業・高収入(出世コースまっしぐら・・・)」しかも子供の為と言いながらも そこには少なからず親側のエゴ(見栄)が潜んでいるのではないでしょうか? これらの問題の原因を聖書は明確に教えて下さっている。神様に最初に創造された 「アダムとエバ」は互いに裸であったが、互いに恥の意識は全く無かったのである。 人間は等身大の裸のままで「完全体」であった。神様の傑作品として神様の栄光を 放ちながら「輝いていた存在」だった。ところが神様の前に罪を犯した途端、彼らに 自意識が芽生え、恥の意識を持ち、裸のままの等身大の自分自身を受け入れる事が 出来なくなってしまったのである。そこで彼らは何をしたのか?「イチジクの葉」で 自分たちの裸の恥を覆い隠し始めた。これは人間の「自己義」を表している。自分で 自分は「正しい・良い・OK」とする見栄を張る姿であり、これらは神様の御前に罪 を犯した結果として行った行為(Doing)である。自分の存在価値を失い、もうあり のままの自分ではいられない!それ以来、人類は「裸の恥をイチジクの葉で覆い隠す 事」を歴史の中で繰り返しながら生きて来た。それが現代社会の大きな歪みとなって 人間の心を、子供たちの心を蝕んでいる。しかし・・・ どんなに自分のBeing(存在)をDoing(行い)で覆ったとしても、それで人間の 存在価値が保証されるわけではないし、それでは自分の存在に自信が持てないのも 事実である。例えば、芸人さんも「売れている今」はそれで良いが、もし「売れなく なったら」大変である。(それを恐れている人も多いと聞いた事がある。)かつての 売れていた頃の自分は既に「過去の栄光」であり、歌手の中にもヒット曲が出ずに 過去の栄光にしがみついている人もいる。純金とメッキは異なり、純金はいつまでも 輝いているが、メッキはすぐ剥がれ落ちてしまう。そうなった時、メッキの下にある Being(存在)はどうなるのか? 知って欲しい!人間のBeing(存在)は、Doing(行い)で成り立っているのでは ない。その逆である!人間のDoing(行い)は、Being(存在)で成り立っていく! のである。Being(存在)が土台であり、人間の存在価値は人間を創造して下さった 神様によって保証されるのである。存在している事に価値がある。なぜならあなたは 神様の傑作品(世界でたった一人の個性ある人間)とされているからだ。神様が、 「あなたはあなたで良い・他の人と比較しなくてよい・あなたはOnly1なんだ!」と 言って下さる。この神様の愛のメッセージを受け取るならば、心に平安がやってきて 自分には存在価値があり、自分に自信を持つ事もできる。存在にホッとしたら! それで終わりではなく、それが出発点(スタート)となりDoing(行い)へと導かれ ていく。自分らしく生きればそれで良い。本当の輝きは、外側からではなく内側から 滲み出てくるものであるから・・・そして自分らしくスキルを身に着けて、その道の エキスパートになれば良い。その力も神様は与えて下さる。 等身大の自分を愛して下さる神様の愛を受け取りながら、その等身大の自分を愛して 更に自分の隣人を愛していけば良い!(他者は蹴落とす存在ではなく、愛する対象と なれば人間関係は豊かになっていく) AIの時代、人間そのものが排除されつつある時代、だからこそDiong(行い)以上 にBeing(人間の存在)が今、問われているのだと思います。 聖書の言葉「愛は結びの帯として完全である!」 |
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新年メッセージ | |
新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。初詣、多くの方々が、 神社仏閣に出向き、ご利益を御祈願されているかと思います。日本では、昔からアニ ミズム信仰が継承されて来ました。(物に霊魂が宿ると考えられている信仰の事) 目に見える大岩や巨木などに神々が宿ると考え、それをご神体として拝む対象にして 来ました。更に神社の拝殿や仏閣にある仏像にも神々が宿る、つまり人間が作った物 をもご神体として、それらを拝む対象にして来たのです。 やがて長い歴史の中で数え切れない神々を作り出し、習慣的にそれらを崇拝して、 それが日本の文化(宗教)にもなってきました。これが八百万の神(やおよろずの かみ)と言われている理由であり「数え切れないほどの神々を信仰&崇拝する民族」 これが日本人の宗教観なのです。 ※ちなみに日本の仏教は、中国の儒教の影響を受けて「日本仏教」に形を変えて変貌 したものであり、日本人好みにすり替わったと言って良いかと思います。もちろん そこには、人間の心の中にある「宗教心(人間よりも大いなる存在である神に頼り たい心)」もあった事でしょう!そして幸せな人生でありたいと願う人間の自然な 祈り心もあった事でしょう! しかし、突き詰めると人間の利己心が「自分にとって都合の良い神々を勝手に作り 出して勝手に拝む対象にして来た」と言っても過言ではないと思います。では? 不完全で有限な存在である人間が作った物が、完全で絶対的で無限の存在である神様 になる・・・!?本当にそうでしょうか?神様は、人間にとって都合の良い存在? なのでしょうか? 聖書に次のような言葉があります。「神のなさる事は全て時にかなって美しい。 神は人の心に永遠への思い(永遠の存在への思い)を与えられた。しかし人は、神が 行われる御業を初めから終わりまで見極める事は出来ない」 神様が人間を造られた時、神様に似せて創造されたと聖書に書かれています。人間は 永遠の存在である神を神様と認め、その神様を求め、その神様に祈り、その神様との 関わりの中で生きる存在でした。聖書的に表現すれば、「人間は神様に似せて創造 された霊的存在である」と言う事です。少し分かりづらい表現かもしれませんが、 この事を「人間の体に備えられている五覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)」に 対して「霊覚(神様を感じる感覚)」と表現すれば、分かり易いかと思います。 霊と聞くと「火の玉」が浮いているようなイメージ?や「心霊写真」などの不可解 な霊の存在をイメージ?するかもしれませんが、それは間違いです。人間には元来、 目に見えない神様をキャッチするセンサー(霊的感覚)が備えられているのです。 霊的存在とは「目に見えない神様と人間との関係」を表しているのです! しかい、以前にも語った罪(犯罪ではなく自己中心)によって死が入り込み、それ 以来、霊的感覚が機能不全に陥って麻痺してしまったのです。ですから霊覚が正常 に働かないので神様がわからず、人間は神様を見失ってしまったのです。でも! もともと霊的存在なので、心のどこかでは見失った神様を求めているのです。 ※霊的な意味で迷子になってしまったので、自分の存在の起源となる存在(神様) を探し求め、そして人間は神々(宗教)を作り出して来たのです。もし作り出した 神々が、本物だったら問題はないわけですが・・・でもそれが間違った神々であり 偽物の神々であったとしたら大変ですね!??? 日本では多神教が当たり前のような宗教観となっていますが、聖書には「唯一で 真の神様」が啓示されています。啓示とは「人間がどう頑張って考えても神様が、 わからない」ので「神様が私たち人間に神様ご自身を表して解き明かして下さった」 と言う意味です。それが永遠のベストセラーである聖書(神様の言葉)なのです! 私が高校時代の担任教師は、住職兼教師の先生でした。教会が建設された頃、その 先生が、教会を訪ねて下さった事がありました。するとその先生はなぜか?教会の 講壇前にまで進み行き、壁に掲げてあったガラス張りの十字架に向かって「手を合わ せて拝み始めた」のです。私は素朴な疑問を感じました。「ん?住職である先生は、 間違いなくご自分が信じている仏教(神)があるはずなのに?なぜクリスチャンでも ない先生が、十字架に手を合わせて拝んでいるのか?なぜ自分が信じている神だけを 拝まずに異なる神(イエス様)を拝んでいるのか・・・?」これぞ摩訶不思議? 皆さんは、どう思われるでしょうか?私は一人のクリスチャンとして自分が信じて いる神様(イエス様)以外は絶対に拝みません。聖書に啓示された神様(イエス様) が、唯一真(本物)の神様だと確信しているからです。そこに本物と言う確信がない からこそ?何でも拝む対象にしてしまっているのではないでしょうか? 教会は、天地万物をデザインされた神様、皆さんに命を与えて下さった神様をお伝え する事が出来ます! 今年もよろしくお願いします! |
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クリスマスメッセージA 「暗闇を照らす真の光」 |
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24日のイブの聖夜、イエス・キリストが誕生されました。全世界の救い主であられ る方が、王宮のフカフカベッドに寝かされたではなく、貧しい馬小屋で生まれ、更に 食べ散らかした汚い飼葉桶(餌箱)に寝かされたのです。 私たち人間の心を象徴しているのではないでしょうか?「貧しい心・汚れた心」 自分の心に己の手を当てて素直になって考えてみるならば、それを認めざるを得ない 心の闇を全ての人が抱えています。(もちろん私自身も!) イエス・キリストは、そんな私たちの心の中にある暗闇を照らす真の光として来て 下さいました。イエス・キリストは、三つの光となって下さいます。 @「愛の光」 人間の愛を含めて世の中にある全ての愛は、外側からの愛と言えます。外側からの愛 は、私たちの心を真に潤し、満たし、生かす事は出来ません。それは、一時的で変わ ってしまう愛と言っても過言ではありません。しかしイエス・キリストの愛は、内側 から遠赤外線のように私たちの心を潤し、満たし、ありのまま丸ごと受け留めて下さ る愛です。この愛で愛されている事を知る時、真に生かされて行く事ができます。 イエス・キリストの愛は、永遠の愛であり決して変わらない愛です。全ての人は、 この愛で今日も愛されています。そして信じる者の心に住んで下さり、内側から愛を 注ぎ続けて下さるのです! A「癒しの光」 人間は、産まれてから一度も心に傷を受けないで育つ事も生きる事も出来ません。 私たちは、人間関係の中で他者からの傷を受けながら、そして自分で自分の事を傷つ けてしまうような弱い生き物なのです。「自分を愛せない人、自分が嫌いな人、自分 を赦せない人が、多いのではないでしょうか?」 一説には、人間が聞く言葉の80%は、否定的・破壊的な言葉だそうです。つまり 肯定的で創造的な言葉は20%しか無いと言うデータがあるそうです。日本人は特に そうかもしれません。なぜかと言うと日本の教育は「減点法」で成り立っているから です。減点法とは、まず最初に100点ありき!なのです。100点が基準点となって 100点にあと「何点足りない」あなたは不足している!これが減点法の考え方です。 当然、自分は不足していると捉えるようになります。100点ありきで、みんなそれに 合わせなければなりません。「前に倣え!横に倣え!」個性を生かすのではなく集団 生活の中で同調していかなければなりません。そしていつの間にか、心に多くの傷を 負って知らず知らずのうちに蓄積されていくのです。 イエス・キリストは、私たちの存在を愛して下さる方です。聖書に次のような言葉が あります。「神様の目にあなたは高価で尊い。神様はあなたを愛している。」 英語では「Very Important Person in God eyes」 「Very Important Person」のそれぞれの頭文字を取ると「VIP」となります。 イエス・キリストの目に全ての人は「VIP(最重要人物)」とされているのです。 人と比べて優れているので「VIP」なのではありません。群衆の中で特質だからでも ありません。神様の目に「あなた」と言う存在は「VIP」なのです。@のポイントで 語ったように「あなたは神様に無条件で愛されている存在」だからです。この愛に 触れる時、私たちの心は癒されていきます。どんな心の傷も癒されていきます。 聖書は「加点法」で成り立っている神様の書物なのです。 B「希望の光」 現代ほど希望がない時代は、無いのではないでしょうか?近隣国からは「ミサイル」 が頻繁に飛んできます。国と国が争い合って人と人が殺し合っています。借金大国、 少子高齢化、犯罪、SNS上の誹謗中傷、性の氾濫、離婚問題、家庭崩壊、子供の 私物化(所有物化=過干渉や過保護やネグレクトや虐待)、円安物価高、政治不信、 ウイルスによるパンデミック、災害問題、そして高確率でやってくる地震などなど、 数え切れない問題が山積みです。 まさに暗闇に覆われている時代です。それでも人間は、毎日の生活に追われながらも 代り映えのない生活に慣れっこになってしまっているのではないでしょうか? 「我が家だけは大丈夫?・うちの子供は大丈夫?」本当にそうでしょうか? 現代は、想定外を想定内にして備えながら生きていかなければならない時代になって しまったと言えるのではないでしょうか?そんな背景の中で夢と希望はどこにあるの でしょうか? イエス・キリストの復活は、人生の勝利と将来の希望の証であり約束です。 「私を信じる者は、死んでも生きるのです。」イエス様が語った言葉の通り、死は 「ピリオド(終わり)」ではなく「コロン(続く)」であり、天国への希望を持ち ながら、そして地上の人生においても神様からの恵みと祝福を受け取りながら希望 に満ちて生きる為に、2024年前にクリスマスの出来事が起こったのです。 人生のゴールを見据えて生きる事が、有意義な人生に繋がっていくはずです! 2024年のクリスマス、イエス・キリストの光に照らされて皆さんの暗闇が消え去り ますように心からお祈り致します。 |
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クリスマスメッセージ 「死の力を打ち破って復活された今も生けるイエス様」 |
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メリークリスマス!主イエスキリストのご降誕を心から喜びつつお祝い致します。 イエス・キリストとは、姓と名ではありません。イエスは名前であり、キリストは 称号です。「イエスはキリストである!(イエスは神様から油注がれたメシヤで ある)」これがイエス・キリストの正確な意味です。 イエス様は、十字架上で七つの言葉を語りました。その一つが「父よ彼らを赦し て下さい。彼らは自分で何をしているのか?わからずにいるのです!」と言う言葉 です。ご自分を十字架に釘付けにした者たちへの「赦しの祈り・赦しのメッセージ」 でした。なぜ?イエス様は、ご自分が処刑台の上で極刑である死刑執行を受けている 最中にも関わらず、そんな祈りが出来たのでしょうか?ここにイエス様の人類に 対する「愛と赦し」の姿を知る事が出来ます。この祈りのメッセージは、私たち罪人 の為でもありました。ご自分のボロボロになった体から最後の一滴の血がしたたり 落ちるその時まで、ご自分の命が尽き果てる最後の一息が止まるその時まで、 イエス様は「あなたを愛している・あなたの罪は赦される・あなたは救われる」事を 表し続けて下さいました。 クリスマスは、そんなメシヤであられるイエス様が降誕された日であり、神様から の私たちに対する愛の贈り物であり、罪無き神様であられたイエス様がご自分の命を 捧げて「命懸けの愛」を私たちに示す為に天から降って誕生された日なのです。 そして2024年のクリスマスも、皆さん!あなたの前に!この大きなプレゼントが 差し出されて提供され続けているのです。 イエス様は死んで終わった過去の偉人ではありません。ディズニーでも毎年必ず 「イースター」がお祝いされていますが、イースターとは「復活祭」の事です。 キリスト教会でも毎年、イースターをお祝いしています。茹で玉子をラッピングして お祝いしています。(後で食べるのですが・・・)茹で玉子は、新しい命の誕生を 表現しています。イエス様は「甦りました!」十字架で死なれ、間違いなく葬られ、 そして聖書の預言(予告)どおり三日目に「死の力を打ち破って復活された!」の です。 つまりキリスト教とは、「死んだ過去の偉人であるキリストの教え」を後世も継承 して今も固く守り続けている宗教ではありません。キリスト教と言う宗教を信じて 守り続けているのではなく、今も生きて出会う事が出来る生けるイエス・キリストを 信じているのです。神様であられる方が、人格を持って今も出会って下さるのです! もしイエス様を信じて心に受け入れるならば、あなたの全ての罪は赦され(罪の借金 は全額免除され)、救われて永遠の命(イエス様の復活の命)を得、神様の子供と なり、天国行きが決まり、そして生けるイエス様があなたの心の中に住まわれ、人生 を共に生きて導いて下さるのです! クリスチャンとは「イエスキリストに属する者」と言う意味です。あなたは、何に 属していますか?「あてにならない世の中に属していますか?・私たちを死へと追い やる罪に属していますか?」世の中は不安にさせられる出来事ばかりで、もはや安心 出来ない程の不安定な要素に満ちているのではないでしょうか?でも神様であられる イエス様に属する者になるならば、神様の祝福を受けながら恵み豊かで幸福な人生を 喜びと希望を持ちながら生きる事ができるのです! これが全世界のベストセラーである聖書のメッセージです。 2024年のクリスマス、皆さん!あなたにも!クリスマスの本当の主人公である 今も生けるイエス・キリストと出会っていただきたいと心から願っています。そして 神様の愛に満たされて本当のクリスマスをお祝いしていただければ幸いです! 教会は、いつでも皆さんを心から歓迎いたします! 主イエスキリストのお守りと祝福が、あなたの上に豊かにありますように心から お祈り致します。 真岡カルバリの丘チャペル 牧師 小林光信 |
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第三アドベントメッセージ 「罪の借金が支払い済みになる十字架の死」 |
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第三アドベントを迎えます。クリスマス商戦と言われた時代があってクリスマスが 商売繁盛の道具・金儲けの手段」に利用されていましたが、しかし最近のクリスマス はシンプルになったように感じています。 「きっと君は来ない〜、一人きりのクリスマスイブ♪」山下達郎の歌をバッグに 「シンデレラエクスプレス(東京-大阪間最終便)」が、CMになっていた恋人たちの 甘く切ないクリスマス、そんなイメージは残っているのでしょうか?とにかく恋人達 のセレブレーションである事に、間違いはないと思います! クリスマスのメッセージで有名な「博士たちが捧げた黄金・乳香・没薬」の話が、 聖書に出てきます。これらは全て救い主イエス様に相応しい贈り物でした。 ●「黄金」⇒「全世界の王様となる救い主を象徴」 ●「乳香」⇒「イエス様の神性(神様と罪人に仕える仲介者=大祭司を象徴)」 ●「没薬」⇒「死んだ人に塗る防腐剤(聖書時代は土葬)であり十字架の死を象徴」 ん?なぜ?生まれたばかりの赤ちゃんに贈る捧げ物なのに「死人に塗る防腐剤?」 余りにも相応しくない贈り物に感じないでしょうか? 前回のメッセージでもイエスキリストの誕生は、旧約時代から預言(予告)されて いた事を伝えましたが、同様にイエス様の十字架の死も預言(予告)されていた事で ありました。イエス様は、この地上に降誕され「やがて十字架に釘付けにされて死な なければならない事」をご存じの上で来て下さったのです。確かに私たち人間は、 やがて全ての人が必ず死を迎える時がやってきます。ではイエス様の死と私たちの死 は同じではないのでしょうか?いや全く違います。 前回に罪の話をしましたが、人間は神様の御前に罪を犯して罪人(自己中存在)と なりました。その罪の結果として人間に「死」が入り込みました。人類最初の人間で あったアダムとエバが罪を犯す前は、神様との関わりの中で永遠に生きる事ができた のです。つまり人間は最初から死ぬ存在ではありませんでした。ところが罪を犯した 結果、人間(人類)に死(永遠の滅び)が入り込んで罪人は死ぬ運命の呪いの中に 置かれてしまったのです。一般的には、人間は「老いるから・病気になるから」死を 迎えなければならないと理解されているようですが、聖書は正反対です! 人間は「罪を犯して死ぬ存在となった」ので結果として「老いて・病気にもなる」 これが正しい理解です。「罪=死」であり死が意味する事が「永遠の滅び」と言う事 なのです。 しかし、イエス様は初めから神様であられ、人間として来られたイエス様も私たち と同じような罪人ではありませんでした。イエス様とは、決して死ぬ必要がない方で した。そして地上の生涯においてもイエス様は私たちと同じ人間でありながら「罪を 犯さなかった方」であられました。そのイエス様の生き様が、新約聖書の「福音書」 に載っています。つまり罪人で無い方が!死ぬ必要が無い方が!十字架刑と言う極刑 によって死ぬ事になり、それは最初から決まっていた事であったのです。これは神様 が決められた身代わりの死でありました。愛に満ちた神様と正義に満ちた神様の相反 する二つの性質が、互いに葛藤する中で神様が苦肉の策として定められた救いの方法 であったのです。 愛に満ちた神様は、私たち罪人を完全な愛で愛しておられます。神様の愛は罪人の 罪を赦して死(永遠の滅び)から救い出したいと願っておられる愛です。じゃぁ? 神様が愛だったら人類をみんな救ったら良いのでは?と言う疑問が出てくるかも? でも神様のもう一つの性質は「正義」です。罪人の罪を曖昧に誤魔化して無かった 事にする事はできない100%完全な正しい正義です。もし神様が、罪人を無条件で 赦して救ったならば、もはや神様は正義で無くなってしまいます。神様が罪を犯す事 になるからです。正反対に、正しい神様が正義を振りかざして罪人が犯した罪の刑罰 を人類(私たち)に科したならば、全ての罪人は、みんな死んで滅んでしまいます。 神様の愛とは、それでは心が痛み、とても耐える事が出来ない程の完璧な100%の 愛なのです。 「罪人を罰すれば神様の正義は貫かれるけど人類が滅んでしまう!」 「罪人を無条件に赦せば神様の愛は貫かれるけど神様が不義になってしまう!」 「何とかして人類を救いたい・何とかしてあなたを救い出したい!」そこで・・・ 愛と正義の神様が葛藤する中での苦渋の決断、それが「神様の御子救い主イエス 様」の身代わりの死でした。罪を犯した事がなかったイエス様が、私たちと同じ人間と して「身代わりに罪を背負って罪人とされ・十字架で罪の刑罰である死を経験」して 下さったのです。つまり神様は「私たちを罰する代わりに神の御子イエスキリストを 十字架に釘付けにして死刑執行の刑罰を下す事」によって罪を曖昧に見過ごさずに、 神様の正義を貫かれました。そして愛なる神様は、イエス様を救い主として信じる者 を罪から救って下さると言う「信じるだけで救われる救いの道を備える事」によって 神様が私たちをどれほどの大きな愛で愛していて下さるのかを教えて下さっているの です。だから教会は「十字架」を掲げて神様の愛と義の救いを表しているのです クリスマスに降誕されたイエス様は、神様からの愛の贈り物(プレゼント)です。 私たち罪人が、神様の御前に背負った「返済不可能な罪の借金」をイエス様が、 十字架で死んで「償って下さり・満額返済して下さった」のです。 間違いなく私たちの罪が赦される「エビデンス(根拠)」が、聖書の中に・イエス 様の十字架の中に明確に表されているのです。そして信じる者は「永遠の滅びから 救われて永遠の命」に生きる喜びと希望が与えられるのです。天国の祝福です! 2024年のクリスマス、神様からの愛の贈り物を「皆さんにも・あなたにも」 受け取って欲しいです。 クリスマスメッセージでは、イエスキリストの復活(イースター)に焦点をあて メッセージをいたします。 |
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第二アドベントメッセージ 「死ぬ目的を持って降誕されたイエス様」 |
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第二アドベントを迎えます。今年もやってくる「クリスマス!」お祝いの仕方や 飾り付けの仕方は、時代と共に様々な形に変化して来ましたが、それでも決して 消滅しないクリスマス、本当に不思議です。たった一人の方の誕生日が、2000年 経過してもなお世界中でお祝いされ続けている! なぜ?イエス様の降誕は忘れ去られないのでしょうか?クリスマスには、深い 意味があり神様からのメッセージが込められているからです。言い換えれば、神様 からの大き過ぎるプレゼント!それがクリスマスなのです。 皆さんは進化論(人間の起源はビッグバーンによる偶然の爆発によりアメーバ? のような微生物が誕生して猿に進化して人間に成り上がった・・・?)を信じて いますか?全ては偶然によって成り立っている世界観ですが、残念ながら人間は、 偶然の産物では「自分の存在価値・人生の意味や目的」と言う人間の根本的な問い 掛け?に対する答えを見つけ出す事ができません。でもそれでは生きて行けないの で一生懸命に「自分の存在価値や人生の意味や目的」を見つけようと模索している のです。 そして、これらの重要な「問い」に対する「答え」を「世の中」から見つけよう としているのです。だからこそ必然的に「人間同士の比較競争の中」で「人よりも 上」の立場に立ちたい欲求が出てきます。それが世の中の三点セット(地位・名誉 ・財産)によく表されていると思います。もっと分かり易くい言えば「勝ち組・ No1」と言う称号によくよく表されています。しかし、そこに本当の存在価値や 人生の意味があるあるのでしょうか? それに対して聖書のメッセージは、進化論ではなく「神様による天地創造」です。 この世界(宇宙)もそして個性ある私たち人間も「デザインされた神様」がおられ、 「命を与えて下さった神様」がおられる!つまり人間は神様が創造された世界に 一つしかない傑作品だと言うことです。だから比較しなくてもOKなんです!比較 しようがないのです。全ての人間は神様に愛されている「愛の対象の一人」であり、 全ての人には「存在価値」があり、そして全ての人間には「人生の目的や生きる 意味」が神様から与えられているのです。 あなたはあなたで良い・あなたらしく存在してあなたらしく生きればそれで良い これが聖書のメッセージであり、クリスマスに込められた神様からの愛のメッセー ジと言って良いでしょう!ところが「神様がわからないのではないでしょうか?」 「神様に愛されている事もわからない?・神様のメッセージも聞く事が出来ない?」 そこにある一つの問題は、多くの日本人の神観は「お願い事をする対象であったり ご利益を求める対象、人間が木や石で作った造形物が神様であったり、自然界など (太陽神など)その物が神であったり」と人間の小さな頭の中に神様を押し込んで 「人間の頭の中で考え出した神観」で神様という存在を認識している事にあります。 ここに人間が、神様の前に犯した「罪」と言う問題が潜んでいます。きっと罪の 話は好きではないと思いますが、聖書が言う罪とは「罪=犯罪」ではありません。 罪とは「的外れ」と言う意味です。そして的とは「天地を創造された唯一の神様」 の事ですが、その神様と言う的を外して生きている!これが罪の問題です。本来 人間は神様中心(神様ファースト)で生きる存在として造られました。そこに人間 の本当の幸福が約束されていましたが、人間は「的を外して罪人」になり、全く 正反対の「自己中心(自分ファースト)」に生きる存在になってしまったのです。 (昔、自己中増えてますと言うCMがありましたね!) 英語で「罪」は「SIN」です。真ん中に「I」が存在しています。「I=私」全ては 私であり私中心=自己中心、これが神様の前に罪人の真の姿です。自分の内側に 存在する「I=私」から様々な形で外側に暴露されてくるのが、まず道徳倫理的な 罪です。その代表が、人を愛せない事や赦せない事などですね!そして更に行き 過ぎると、「刑法上の罪」という問題も起こります。※最近、闇バイトなるものが 横行していて高齢者住宅を狙って強盗に入ったり、殺人を犯してしまったり・・・ 本当に恐ろしい世の中です。そこに至る人は僅かな人だと思いますが、しかし自分 の内側にも確かに「よろしくない自分が存在する!」これも確かな事ではないで しょうか?これら人間の罪の問題が、世の中にある様々な問題を引き起こしている のは事実だと思います。 ここで今日のタイトル「死ぬ目的を持って降誕されたイエス様」が、適用され ます。私たち全ての人間は、神様から生きる目的を持って命が与えられて生かされ ている尊い価値ある存在ですが、イエスキリストだけは「死ぬ」目的を持ってこの 世界に天から遣わされて来たのです。 それが、私たちを罪から救い出す事と深い関係があるのです! 第三アドベントメッセージでは、イエスキリストの死にスポットライトをあてて メッセージをいたします。 |
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第一アドベントメッセージ 「必然的に起こったクリスマスの出来事」 |
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12月1日(日)は、第一アドベント(待降節)です。 アドベントカレンダーは有名ですが、イエス様の降誕を待ち望みながらクリスマス の本当の意味に思いを寄せる特別な期間です。 驚くかもしれませんが、クリスマスとは偶然に起こった出来事ではなく、必然的 に起こった出来事でした!分かり易く言えば、イエスキリストの誕生は、旧約聖書 時代から預言(予告)されていた事であり、その預言通りに起こった出来事が、 クリスマスと言う事です。つまりイエスキリストとは偶然に誕生して人生における 偉大な功績や実績のゆえに後世に語り継げられて偉人となった単なる「偉人伝」 ではないと言う事です。 例えば、世の中には「偉人伝」が、たくさんあります。 「斎藤宗次郎さん」と言う方をご存じですか?(名前だけでは分からないかも?) でもこの有名な詩は、きっとご存じかと思います。 「雨にも負けず風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち 欲はなく決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆる事を自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり そして忘れず 野原の松の林の陰の小さな茅葺の小屋に いて東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもよいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き みんなにデクノボウと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういう者に 私はなりたい!」 クリスチャンであった「宮沢賢治」の有名な作品「雨にも負けず」です。これは、 宮沢賢治が、クリスチャンであった斎藤宗次郎さんをモデルにして書いた詩です。 賢治は、この詩の中で自分も斎藤宗次郎さんのような人になりたいと明言しています。 その宮沢賢治が有名になり、そして「雨にも負けず」も有名な詩となり、そして この詩のモデルになった「斎藤宗次郎さん」にもスポットライトがあてられた、 これが偉人伝物語です。偉人伝の主人公である偉人は、既に過去の人なのです。 しかし、イエスキリストは違います。後世に語り継がれてきた単なる昔の偉人 でもなければ有名人でもない。宗教家や思想家、哲学者や知識人でもありません。 現代に生きる人々にとって「想い出の偉人?」ではなく「今も生きておられる神」 であり「今も出会う事ができる救い主」なのです!つまりイエスキリストは、必然 的に生まれるべくして生まれた方であり、クリスマスは起こるべくして起こった 出来事なのです。 神様であられた方が「神様の姿」を捨てて「人間の姿」をまとって、この世界に 誕生して下さった方、それがイエスキリストなのです。ですからイエスキリストの 誕生を「降誕(こうたん)」と表現します。天国からわざわざ降って来られて生ま れて下さったと言う意味です。 ちなみに昔から一般的に「仏教は上りの宗教」と言われ、「キリスト教は降りの 宗教」と言われてきました。仏教とは、人間側の努力によって精進して神にまで 上り詰めていく世界です。それに対してキリスト教とは、どんなに人間が頑張って みても「有限な存在である人間は、人間でしかあり得ずに神になる事は出来ない」 ので、「神なる方が人間となって私たちの世界に降って来られて救いの道を備えて 下さった!」これがキリスト教の世界観です。 つまり人間であられたイエスキリストが、神のような存在にまで上り詰めてキリ スト教の創始者となり救いを説いた、と言う宗教ではなく、永遠の初めから神で あられたイエスキリストが、私たち人間と同じ立場に立って同じ目線で生きて下さ った歴史的に実在した存在(人間)であり、その方の実体は神様であられた!と 言う事です。 神であられる方なので!この世界の時を刻む基準をイエスキリストに置いて計算 されているです。西暦はBC(紀元前)とAD(紀元後)に区分されていますが、 BCとは、ビフォァクライスト(キリスト以前)を表し、 ADは、アンノドミニ(キリストの恵み)を表しています。 今年は、イエスキリスト降誕!2024年という年なのです! イエスキリストは、みなさんの為、あなたの為にお生まれになられました。 第二アドベントメッセージでは、生まれるべくして生まれ起こるべくして起こっ たクリスマスの出来事には、重要な目的があった事をお伝えします! |
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「あやかり信仰」 | |
あやかり信仰の代表は「ご利益」である。そしてご利益の代表は昔から決まって いる。@商売繁盛 A家内(交通)安全 B無病息災 C五穀豊穣 とにかくご利益にあやかりたい!そしてご利益をあやかる対象者は、間違いなく まず自分自身である。そして自分にとって大切な人物が2番目の対象者になる。 他者のご利益を願い求める人は、それほど多くはないのでは?と思う。間違っても 嫌いな人のご利益を願い求める人はいないのでは・・・? 日本の文化である「年中行事」の中に「あやかり信仰」がよく表されている。 ・1月⇒お正月の初詣(神社へお参りに行ってご利益を祈願する) ・2月⇒節分(豆を食べる事によって病や災いを追い払う力を得る) ・3月⇒ひな祭り(汚れや災いをひな人形に移して追い払う儀式) ・4月⇒はな祭り(お釈迦様の誕生を祝う仏教行事) ・5月⇒鯉のぼり(健やかな成長を祈願する儀式) ・6月⇒夏越しの祓(上半期の清めと下半期の無病息災を祈願する) ※一般の家庭ではあまり馴染みがないようです ・7月⇒七夕(短冊に願い事を書いて笹竹に飾って祈願する儀式) ※もともとは中国の神話から始まっているようです ・8月⇒お盆(先祖の霊を祀る儀式) ・9月⇒秋彼岸(お墓参り) ・10月⇒ハロウィン(魔除けの儀式) ※アメリカで始まったようです ・11月⇒七五三(それぞれの年齢者が神社や寺で健やかな成長を祈願する) ・12月⇒クリスマス(プレゼントを交換したりケーキを食べて祝う???) ※残念ながらそんな日ではありません(イエス様の誕生日です!) 年中行事の全ての中に「あやかり信仰・ご利益信仰」がよ〜く表されている。 でも不思議に思いませんか?まるで季節の衣替えをするように年中行事に従って 宗旨替えをしている。神社仏閣も多種多様で「有名でご利益がありそうな所」を 目当てに「お参りやご祈願」に行く。そこに何が祀られているのか?何が信じられ ているのか?は、あまり興味も関心もない。 では、ご利益にあやかりたい人間の心の中心にあるものは、何でしょうか? 「欲望に満ちたエゴ(利己心)」ではないでしょうか?神様の言葉である聖書は、 人間のこれらの心の問題を扱っている聖なる書物なのです。 織田裕二主演の「躍る大走査線」が、再始動して注目を集めています。ギバ ちゃんが演じる「室井慎次」のその後の人生を描いた映画が公開されました。 青島刑事の名ゼリフは「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こって るんだ!」心に残るシーンですね! この言葉を借りるならば、まさに「問題は世の中にあるんじゃない、人間の心の 中にあるんだ!」ではないでしょうか?「問題の責任は誰かにあるんじゃない、 自分の心の中にあるんだ!」ではないでしょうか? これらの問題の根っこにあるのは、人間の心を巣食う「罪の問題」だと聖書は、 語っています。人間の心(内面)が変えられない限り、世の中の問題は解決しない はずです。皆さんはいかがでしょうか?あなたの心はいかがでしょうか? ご利益を願い求めるあやかり信仰、その為に宗旨替えをする「なんちゃって信仰」 から救って下さる方がおられます!人間の心を新しい心に生まれ変わらせて下さる 方がおられます!それは、死の力を打ち破って甦られた今も生きておられる救い主、 イエスキリストです!(キリストの復活を祝う日のが、イースターです!) |
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「愛?は地球を救うのか?」 | |
毎年恒例のテレビ番組、今年のタイトルが「救うのか?」に変わった。この番組 は、基本的にチャリティ番組で募金を募って多額の寄付金が集まっている。そして 多くの所に活用されて大いに役立っている。(福祉車両など・・・) でも以前から問題視されている事も多くある。「出演者はボランティアではなく 出演料をもらっている事(マラソンランナーは1000万円?と言う噂も?)・障害 者にスポットを当てて感動させる演出を行っている事(感動ポルノと言う指摘も ある)・そして発覚したのが募金の私的流用である。」 愛は地球を救うのか?この問いを始めるには、まず「愛とは何か?」から問わな ければならないと感じてやまない。このキャッチコピーになっている「愛」とは、 おそらく(間違いなく)神様の愛ではないと思う。と言う事は、必然的に人間の 「愛」と言う事になる。 人間の愛はどんな愛か? @「不完全な愛である」⇒人間自身が不完全な存在なので不完全な愛に過ぎない A「変わってしまう愛である」⇒不完全と言う事は変わってしまう愛でもある B「条件付きの愛である」⇒条件が合う間は愛せるけど合わなくなった途端に 愛せなくなってしまう愛 C「見返りを求める愛である」⇒愛した分の見返りを求めてしまうので、見返りが ないと憎しみや恨みにすり替わる愛 D「自己満足の愛である」⇒相手の益(満足)を願う愛のように見せかけて本当は 自己満足を求める愛(ドラマ=スカイキャッスルの テーマにもなっている!子供の為?⇔自分の為!) E「偽善的な愛である」⇒偽善が潜んでいる愛 F「自己中心的な愛である」⇒人間は自己中心的な存在なので所有欲に満ちた愛 このような人間の愛では、地球を本当に救う事は出来ないのではないだろうか? では人間の愛を超えた愛は本当にあるのか?⇒神様の愛である(ここで語る神様 とは?八百万の神々=人間が作り出した数え切れない程の神々の事ではない。 聖書の中に啓示されている天地の全てを創造された唯一まことの神様の事である! 神様の愛はどんな愛か? @「完全な愛である」⇒神様とは絶対的な存在であり完全な存在でもあられるので 神様の愛も絶対的で完全な愛 A「不変的な愛である」⇒完全と言う事は絶対に変わらない愛 B「無条件の愛である」⇒無条件に愛して下さる愛なので、不完全な人間のありの ままを受け入れて存在を丸ごと愛して下さる愛 C「見返りを求めない愛である」⇒与えっぱなしの愛(これを恵みと言う!) D「相手の満足を100%求める愛である」⇒愛する相手が100%益になる事を 心から願う愛 E「真実な愛」⇒偽善が1ミリも混入していない純度100%の真実な愛 F「自己犠牲の愛である」⇒神様の愛は犠牲的な愛である。神様は既に犠牲を払っ て下さった。私たちが知らない所で神様の尊い聖なる 命の代価が支払われた!それがイエスキリストの身代 わりの十字架である! イエスキリストが十字架に架かられた場所は「カルバリの丘」と呼ばれている。 2000年前の出来事であるが、2000年経過しても全く色褪せない十字架の愛! なぜならクリスマスに誕生されたイエスキリストは、十字架で死なれた後、三日目 に甦られた今も生きておられる神様であられるから!それがイースター(復活祭) 今日もあなたの心にイエスキリストの十字架の愛が注がれ続けている。 あなたを罪から救い出す為に既に捧げられた命懸けの愛が、あなたに注がれ続けて いる。この愛以上の愛は世の中に存在しない。この愛こそ地球(人類)を救い出す 愛である!皆さんにも受け取って欲しいと心から願っています。 |
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「ストレスフリーの生活」 | |
ストレスが無く穏やかに生きる事を「ストレスフリーライフ」と言う。過剰な ストレスが加算されていく世の中(社会)であるからこそ人間は、ストレスフリー ライフに憧れるのではないでしょうか?しかし現実は、ストレスフリーで生きる事 は不可能と言っても過言ではない。 人によってストレスの解消法は、みんな違う。ちなみに妻はもともとインドア派 なので「編み物」をして解消している。私はもともと体育会系のアウトドア派なの で「走る事」が解消法であったが、56歳になろうとしている今は、もう走る事が できないので「筋肉を付ける事」が解消法になっている。と言ってもちょっと無理 をすると「腰」を痛めたり「筋肉痛」がなかなか取れない老体である。 様々な解消法があって多少なりともストレス解消になると思う。でもこれら全て のものは、地上に属するものであり世の中で得られるものであるので、一時的な 解消にしかならない。典型的なものが「飲酒」である。その時だけは酔っぱらって 忘れる事が出来ても残念ながらストレスが無くなるわけではない。だからまた飲酒 して・・・と繰り返され、結果的には「飲まずにはおれない」と言う依存症になる のだと思う。 イエス様は言われた。「全て疲れた重荷を負っている人は私の所に来なさい。 私が休ませてあげよう!」神様であられる方からの「ストレスフリーライフ」の 招きの言葉であり、この招きには条件がある。 「イエス様とくびきを負って生きる」と言う事である。 「くびき(下記写真参照)」牛と牛を繋ぐ道具であるが、一見窮屈そうに見える。 しかし、使い方次第では「便利で効果的な道具」にもなる。 一頭では「一頭分の力」で荷物を運搬しなければならない。しかし、くびきで 繋がれた二頭の歩調が合うと二頭分の二倍どころか?「二倍以上の力」で荷物を 運搬する事が出来るのだ!つまり「くびき」とは、牛にとってありがたい道具で あり、思わず「笑っちゃう道具」でもある。どんなふうに牛は笑うと思いますか? 「うっしっし」って! イエス様とくびきを負うならば、人間である私たちが「神様の力」で生きる事が できると言う「びっくり仰天するありがたい繋がり(絆)」なのだ。では? イエス様と負うくびきとは、「イエス様と自分」のどちらに主導権があるのか? どちらがどちらの歩調に合わせるのか?が重要なポイントである。 「イエス様が自分に合わせて下さるのか?⇔自分がイエス様に合わせるのか?」 その答えは、「イエス様は主(王様)」に表されている。イエス様と負うくびき とは、主導権があるイエス様に従っていく信仰が必要である。 しかし、なかなか従う事ができないのが、弱さを持った罪人の姿でもある。 クリスチャンであっても「すぐに重荷が来て疲れてしまう」とか「毎日愚痴と不満 の日々である」とか「夫婦関係や人間関係がうまくいかない」などなど・・・ これらは、自分が主導権を握って自分の思いや考えで生きている証拠である。 イエス様との歩調があっていない。違う方向を向いている。これでは、ストレス フリーライフは、まだまだほど遠い。 私を含めて皆さん!イエス様に従っていく信仰を身に着けましょう!問われて いる事は「従おうとしているのか?」or「従うつもりなどさらさら無いののか?」 私たちの選択による。イエス様は、命懸けの愛を十字架で示して下さった方であり その愛で今日も私たちを愛していて下さる。 「全て疲れた人、重荷を負っている人は、私(イエス様)の所へ来なさい!」 |
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「行いの無い信仰は死んだ信仰」 | |
私たちの教会では、救いの教理(重要な教え)について学んでいる。 @信仰義認・A新生・B聖化・C栄化。これらは聖書の中の限定されたテーマを まとめあげた組織神学の分野であり、救いの教理を聖書から丁寧に学ぶと明確に 見えて来ることがある。イエス様の福音とは、完全な救いである!と言う事だ。 よくネット上のYouTubeで配信されているメッセージの中には、万人に聞こえ が良いメッセージが発信されている。「信じるだけで救われて天国に行ける!」 もちろん、これが救いの教理の「信仰義認」のテーマである。信仰によってのみ 救われる事ができる。なぜ?その根底にはイエス様の「代理受刑の十字架」が、 あるからだ。イエス様が、私たち罪人の罪を背負って十字架で身代わりに死んで 罪の刑罰を受けて下さり、神の御子の尊い聖なる血を流して下さった「贖い」の ゆえである。そこに人間の行いは、一切必要なし!「信じるだけ!」 しかし、これは救いの入口に過ぎない。聖書は、ただ信じていればそれで良い? なんて一言も語っていない。次に来るテーマが「新生」である。クリスチャンとは 新しく生まれ変わった者である。新しい心と新しい価値観をいただいた。これは イエス様に合わされた「包括受刑の十字架」のゆえに与えられる恵みである。 パウロが、聖書の中で好んで使っている表現「神様によってキリストの内にある 者とされた=in christ」である。キリストの内にある者とされたので、イエス様 の十字架経験と同じ経験をした者とされている。具体的には「死と葬りと復活」 の経験を表す。 イエス様と共に死んで葬られ、罪の刑罰である死を私たちも受けた。そして イエス様と共に神様の復活の命で甦った者でもある!これが、新生の根拠になる。 復活の命(神様の永遠の命)で新しく新生した。新しい心と新しい価値観をいた だいた。なぜ・・・?パウロが、その目的をローマ6章で明確に述べている。 「命にあって新しい歩みをする為」である。つまり信仰義認によって信じるだけで 救われ、それで終わりではなく「新生」して内面(心)も生まれ変わった。 「新しい歩みをする為!」これが神様が願っておられるクリスチャンの姿であり、 福音であり、信仰の本質である。であるならばネット上にある一部のメッセージ、 「教会に行かなくても大丈夫・礼拝に行かなくても大丈夫」という内容は、信仰の 本質を捕えていない的外れな「万人受けするだけのメッセージ」と言って良い! 信じるだけで救われる!しかし、信じているだけで何も変わらないのであるなら ば、ヤコブは明確に語っている。「行いの無い信仰は死んだ信仰である!」 礼拝に行かない?献金も捧げない?信仰生活や教会生活を歩まない? これら行いが伴わない信仰は、もはや死んだ信仰である。心において新生して いない証拠である。「ボーンアゲインしていないクリスチャン?・なんちゃって クリスチャン?」に対して聖書は、愛によって警告している。 「行いの無いあなたの信仰を見せて下さい。私は行いが伴う私の信仰をあなたに 見せてあげます!」どちらが本物の信仰であるのか?一目瞭然である! 神様の選民であるユダヤ人(イスラエル)が、イスラム教過激派によって攻撃 されてユダヤ人大虐殺事件が起こっている昨今。背後でイランが、武器や資金を 援助しており「ロシア・北朝鮮・中国」などがイラン側に着いている。イランの 前大統領は、「世界地図からイスラエルを消し去る!」と豪語していた・・・ これは、聖書の預言通りの事が起こっている証拠である。いわゆる「エゼキエル 戦争」の事であり、世の中は本当に終末時代を迎えていて反キリストが出現して イスラエルと見せ掛けの「平和条約」を結ぶお膳立てが、整いつつある。つまり イエス様の再臨の足音が、もうそこまで近づいているのである!!! 皆さん、ネット上の万人受けするメッセージに騙されないで下さい。 信仰の本質、それは行いが伴う新しい歩みへと導く救いであり、イエス様は救いを 完成して下さる「義と聖めと贖い」になって下さるお方である。イエス様の救いは 完全であり、全人格的な救いです。 終末時代における現代は、信仰が本当に試されている時代でもある。イエス様の 再臨の時、「地上に残されない者」は幸いである。その為に信仰が整えられ、信仰 が聖別され、信じている事に従って信仰を実践しなが歩む者でありたい! |
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「責任を取る事ができない幼稚な大人?」 | |
世間を賑わせている一つの問題、それは中古車販売大手○○○モーターの保険 金不正請求問題である。「過度のノルマ!そしてパワハラによる圧力支配!」と 会社の悪い体質が日常化していた事が、徐々に明らかになりつつある。 前社長と前副社長は、親子(父子)関係にある。この親子は責任を取って既に 退任し、新社長が就任した。ちなみに前社長は、一代で「大手会社」にまで業績 を伸ばした敏腕社長?だったようであるが、その背景には、多くの社員たちに 「多大なしわよせ」があっての事だったよう・・・ 更なる問題は、副社長であった息子が一度も顔を出さない事である!会見を した親に代弁してもらって自分自身は雲隠れ?しかし、この「お坊ちゃま息子」 が、副社長と言う立場にいて実際には「会社の実権」を握っていたとの事。 ところがその実体は、父親である社長の権力を傘にして我がまま放題、好き 勝手にやりたい放題、とにかく権力をちらつかせながら横暴な経営をしていた ようである。傘の下にいる間はデカい顔をして自分を覆っていた傘が無くなった 途端に逃げ回る・・・お坊ちゃま育ちで自分一人では何も出来ない幼稚な大人? が、このような失態を犯してしまうのでは??? 「威張り腐って人を支配したい!」=「人格が未熟で幼稚な証拠である!」 「人格者は器が大きく謙遜である」=「イエス様がそうであった!」 牧師をしていると(聖書を読むと)、現代の親子関係は歪んだ関係性にある と言う事が、よくよく分かる。せっかく有名大学に行って「○○大学(大学院) 卒業」と言う肩書を手に入れたとしても中身(実質)が、全く伴っていないので ある。肩書ばかりが立派で人格が未熟で幼稚な大人?実にアンバランスである! 親がいなければ、自分で決める事も自分で責任を取る事もできない・・・ こんな悲劇が、現実に起こっている。当然であるが、それでは世の中で生きて 行く事ができない。「お坊ちゃま君」が、通用するほど世の中は甘くはない。 なぜなら聖書に明確に書いてあるからだ。「この世の支配者である悪魔がいて 悪魔と戦っていかなければならない世界である」と! 親バカな所はみんなある。でもバカな親であってはならない。バカな親とは、 「子供の為になる事をするではなく自己満足を求めて子供を利用してしまう親。」 そのつけは、やがて必ず親にも子供にも跳ね返って来る。「蒔いた種は、刈り 取らなければならない」と聖書に書いてある通りだ! y 神様を見失った人間が求める事、それは昔から何も変わっていない。世の中に ある「地位・名誉・功績・財産」である。これらの物で身を固めれば、勝ち組? になれると勘違いしているようである。神様を知らなければ、必然的にそんな 消えて無くなってしまう空しい物を追い求めるしかない。 知って欲しい!「神様を信じて、神様を知り、神様と共に生きる!」こんなに 素晴らしい人生、こんなに満たされる人生はない! |
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「死の陰の谷で立ち止まってはいけない」 | |
聖書の真ん中あたりを開くと「詩篇」が出て来る。その詩篇の中でも23篇は 有名である。これを暗記して時に叶って「暗唱」しているクリスチャンは多いと 思う。主は私の羊飼いから始まる23篇は、真の神様への全き信頼から来る驚く べき恵みを歌っている。 4節にこうある。「たとい死の陰の谷を歩く事があっても災いを恐れません。 あなた(神様)が、共におられますから」これは、この歌を歌ったダビデ自身の 経験を歌っているが、ダビデは二つの経験をしている。 @「死の陰の谷の経験」 ダビデの人生の中にも死の陰の谷が迫って来た。具体的には書かれていないが、 旧約聖書を読んでみると見えて来る。ダビデも命が狙われて孤独と不安の中で 眠れない夜を過ごした。これがダビデの目の前にあった現実の世界である。 しかしダビデは、もう一つの経験をしている。 A「主(神様)と共に歩き続ける経験」 ダビデは、死の陰の谷が迫って来る現実の中でも信仰の歩みを止めなかった。 共に生きて下さる神様と歩き続けた。つまり信仰の歩みを続けたのである。 だからこそ「たとい死の陰の谷を歩く事があっても災いを恐れません。あなたが 共にいて下さるから」と信仰の告白をする事が出来たのである。 これは、とても大切なメッセージである。私たちは、何かの問題が起こると いとも簡単に信仰の歩みを止めてしまい易い。心の中が、目の前にある現実に 支配されて余裕がなくなる。目の前にある問題ばかりを見て「愚痴・不満」の 言葉が出て来る。。誰かの責任にしたくなる。信じていても何にも良い事が ないと神様に文句を言いたくなる。なんだかんだ言って信仰の歩みをストップ してしまうのである。 ダビデは語っている。それは危険である!と。ダビデは決して「死の陰の谷 で立ち止まる時があっても主は共にいて下さる」とは歌っていない。悪魔は、 あなたの信仰の歩みを止めさせる機会を狙っている。そうなれば悪魔の思う壺 である。 教会学校でよく賛美した。「主イエスと共に歩きましょう!どこまでも」 いつも神様と共に信仰の道のりを歩き続けよう。目の前にある現実の中でも 主(神様)は、共に生きて導き、共に歩んで下さる。それは天国に続く確かな 道のりである!ハレルヤ! もし立ち止まっているならば、信仰によって一歩、歩き始めよう! |
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「イエス様の権威ある御名の偉大な力」 | |
先週、イエス様の大宣教命令のメッセージをした。その大宣教命令を果たす為 にイエス様が備え与えて下さったものが、イエス様の権威である。 「私には天においても地においても全ての権威が与えられている!」と語られた。 権威に基づいて神様の大能の力が表される。 その事例として二つの箇所から学んだ。 @「中風(脳卒中)で苦しんでいた百人隊長のしもべが癒された」記事である。 百人隊長は、普段から「権威に基づいて力が働く世界」で生きていた。隊長が、 しもべに行けと言えば行く!・来いと言えば来る!・これをせよと言えば行う! だからこそ百人隊長は、イエス様から語られた言葉にも権威があり、しもべの病 を癒す力があると信じた!イエス様は、この異邦人の信仰に「驚愕」された。 そして本当にその通り癒されたのである。 A「生まれつき足の不自由な男がイエス様の御名によって癒された」記事である。 ある男が、宮の門で「物乞い」をして「施し」を受けながら生きていた。生まれ つき足の不自由な障害者であった。ペテロとヨハネが宮へ祈りに行った時、男は ペテロとヨハネにも施しを求めた。ところが・・・である。 ペテロとヨハネがした事は、施しではなかった。「金銀は私にはない。」とまで 言い放った。しかし、貧しくてお金が無いから「そう言ったのではない。」 もっと違うものを上げたかったのである。「私にあるもの!」そう! 「ナザレのイエスキリストの御名によって歩きなさい!」というイエス様の権威 ある御名を提供したのだ。まさに大宣教命令時、イエス様が弟子たちに与えた 「権威」である。これを弟子たちは、見事に用いた。すると何が起こったのか? その男性が、躍り上がって歩き出した。癒しの奇蹟が起こり、宮に入って礼拝を 捧げた。つまり救われたのである。 実は、このメッセージをする2週間ほど前から「腰痛」で困っていた。一時は 靴下が履けないほどピリピリと神経的な腰痛で悩まされていた。しかし御言葉は 真実であり、権威があり、生きていて力がある。イエス様の御名には偉大な力が ある。メッセージをした日曜日もギターを弾きながら痛みを感じていたにも関わ らず、メッセージ後から今日に至るまで痛みが消えた!腰痛が癒された! 御言葉の権威、イエス様の御名による権威を語っただけでなく、身を持って体験 した。 イエス様は生きておられる!ハレルヤ! |
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「経験から学ぶ事に真の価値がある」 | |
新年、おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 有名なミスチルの歌「HANABI」。このメッセージソングの歌詞の中に、 「笑っていても泣いて過ごしても平等に時は流れる」とある。一日24時間、 一年365日、全ての人に平等に時は刻まれていく。これを「クロノス」と言う。 クロノスタイムは刻々と平等に過ぎ去る時間の事であり、何気なく過ごす時間・ 無意味に過ごす時間・目的をもって過ごす時間・有意義に生きる時間、全ての人 にクロノスタイムは平等に過ぎ去る。 それに対して「カイロスタイム」もある。神様が特別に定めた神様の時間で あり、神様がその人自身に「何かを語り・何かを学ばせ・何かを身に着けさせる 為」に定められた特別な時間である。これが神様の御心のままに応じて神様の時 が、人生の中で用意されている。私の人生の中にも何度も「カイロスタイム」が あった。言い換えれば、それを経験(体験)したと言っても良い! 最高のカイロスタイムもあれば、最悪と感じるカイロスタイムもあった。でも どちらも神様のカイロスタイムである。全ては神様の御手の中にあり、そして 生かされている存在であるからだ。 人生の中で様々な事を経験する事は良い事である。人は「聞いた事は1割・ 見た事は3割・体験した事は8割」残ると言われている。しかし、経験(体験) しただけで、そこから何も学んでいないとするばらば、それはせっかく神様が 教えようとしている「カイロスタイム」から何も学んでいない事になる。実に もったいない事である。 真の価値は、経験(体験)した事から学ぶ事にある。そこに隠されたメッセー ジを受け取り、それを身に着けて人格(人間性)を養う事であり、そして霊的な 信仰も養う事である。これが神様の「カイロスタイム」の真意であり、その経験 (体験)が高価な真珠のような輝きに変えられる。 現代は、社会人になっても「親繋がり」で生きている大人になり切れていない 幼稚な人が多いのではないだろうか? ※見た目は成人、でも心(内面)は未熟? ※自分で考え・自分で決断し・自己責任で生きる事ができない社会人・・・? それで社会人として厳しい社会で生き抜く事が本当に出来るのか・・・? 人生は「肩書(地位)・功績(名誉)・金(権力)」の上に成り立っていくの ではない。イエス様がそうであったように「人格(人間性)」の上に成り立ち、 愛によって建て上げられていき、そこに真の価値がある!つまりどんなに時代が 変わり、ジェネレーションギャップがあったとしても最終的に問われる事は、 間違いなく「人間性」である。未熟な人格(人間性)であれば、何をやっても 「不平・不満・愚痴・文句」が先行する。何をやっても「諦め・逃げ出し」すぐ やめてしまう。それでも「クロノスタイム」は平等に過ぎ去っていく。無駄に 過ぎ去っていく! 全ての人は時間制限の中に生きている。だからこそ経験(体験)した事から 学ぼう!どんなに素晴らしい経験をしても、それが単なる体験で終わるならば、 それでは人格(人間性)にも信仰の成長にも繋がらない。カイロスタイムの中に 隠されている神様からのメッセージを受け取り、身に着けよう!豊かな人間性の 上に豊かな人生を築いて行こう! |
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「主にあって良いお年を」 | |
一年間、ホームページを訪問して下さり、ボヤキ牧師をお読み下さり、心から 感謝します。 時代は、ますます混迷を極めていく様相ではないでしょうか?世界中の人々が 「この地球はもたない」と感じ始めています。でもそう感じ始めたのは、私たち が住んで生きているこの世界が、「そのような状況や状態になってきたらから」 だと思います。しかし聖書は、既に2000年間から「世の中が滅びる事」を預言 しています。神様からの啓示です。愛に基づく警告です。 聖書のメッセージは「滅びる日がやってくる」です。同時に「イエスキリスト による救いがある」も明確に語られています。イエスキリストを信じて受け入れ た人々が、一般的に「クリスチャン」と呼ばれています。日本でクリスチャンは 少数派です。その理由は一つではないと思いますが、日本は「多神教の国」だか らです。多神教の神々を自分のご都合に基づいてご利益を求める対象にしている ので、神様がわからない国民性だとも言う事ができます。 でも残念ながらクリスチャンも「ピンキリ」です。恐らく全てのクリスチャン が、「イエスキリストが私の主です」と告白して救われたはずです。この意味は、 自分の心の王座にイエスキリストを迎え、イエスキリストに人生を導いていただ き、イエスキリストに従っていく事を表しています。 あなたは、いかがですか? ※もしイエスキリストを信じていなければ、心にお迎えしてイエスキリストを 主と認めて人生を歩んでいただければ幸いです。 ※もしクリスチャンであるならば、自分勝手な自分の基準で生きる信仰生活では なく(肉の生活ではなく)、聖書の基準、すなわち神様の生ける言葉によって 生きる信仰生活へと方向転換(悔い改め)をしていただければ幸いです。 なぜなら多くのクリスチャンが、霊的ホームレスとなって放浪生活をしている からです。教会に行かない・教会に属さない・ネットで済ませているだけ。 これは、不健全で不健康な信仰でしかないからです。もちろん様々な理由で 行けなくなった方もおられるでしょう。だからこそ聖書のメッセージに心を 開いて耳を傾けるべきです。「互いに愛し合い・赦し合いなさい。」 互いに弱さを持った赦された罪人同士、だからこそ「愛し合い赦し合って」 神の家族としての関係性が始めて保たれるからです! 聖書の「ローマ12:1」は語ります。あなた方の「体」を神に受け入れられる きよい生きた供え物として捧げなさい。それこそ霊的な礼拝です。 心だけでは不十分です。「からだ」を使う事が、霊的な礼拝だからです。イエス キリストが、十字架に架かって全身全霊で贖いを成し遂げて下さったように、 クリスチャンも全身全霊で仕え・礼拝する事を神様が求めておられます。 イエスキリストを信じて仕え、愛するクリスチャンは、イエスキリストの教会 にも仕え、愛する事ができるはずです。「イエスキリスト=イエス様の教会」、 切っても切る事ができない聖書の大原則です。教会に植えられ、根付き、信仰が 成長していく!自然界の法則を創造された神様は、信仰の領域においても同じ 原則を聖書で明示しています。 イエスキリストにあって良いお年をお迎え下さい。皆さんの祝福を心からお祈 りしております。 真岡カルバリの丘チャペル 牧師:小林光信 |
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「ひどい倒れ方をする前に・・・」 | |
イエス様が、マタイの福音書5章〜7章に掛けて有名な「山上の説教」を語っ ておられる。分かり易く言えば「人生の処方箋・生活の処方箋」である! その最後のメッセージは、これまた有名な例え話であるが「岩の上に家を建てた 賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のメッセージである。 岩の上に家を建てた人、すなわち「頑丈な岩の上に人生を築いた賢い人」は、 雨が降り風が吹き付けてもその家は倒れなかった。なぜなら「揺るがない土台」 の上に家を建てていたからである。この岩の上とは、イエス様の解説によると 「聖書の御言葉を聞いて実行する者」だという事がわかる。 ところが、砂の上に家を建てた人、すなわち「脆くも崩れ去る砂の上に人生を 築いて生きている愚かな人」は、雨が降り風が吹き付けた時に倒れてしまった。 しかもイエス様は、「ひどい倒れ方をする」とまで言われた。これは、もう再建 不能な倒れ方という意味である。やり直しが効かない程のひどい倒れ方である。 この砂の上とは、やはりイエス様の解説によると「聖書の御言葉を聞いても実行 しない者」と言う事がわかる。 イエス様は、「倒れる前」に・そして「ひどい倒れ方をする前」に、愛による 警告をしておられる。それが山上の説教全体の内容で語られている! この箇所をよく読むと、私たち人間の生活に関係する事柄が語られている。 人間は、どうしても生活中心・物質中心になり易い。それは言い換えれば「金」 中心の生活である。それは、ある意味当然かもしれない!目に見える世界で生き ていて、いつも目に見える物だけを見て生きているならば必然的に「必要ばかり」 が、目から耳から(五感から)飛び込んできて、その必要を追求しながら生きる しかないからである。それが世の常である。それが世の価値観であり常識である。 しかし、聖書の価値観(神の国の価値観)は全く別の視点である!生活の必要 があるのは当然であるが、だからこそ目に見えない神様に目を留めて生きる事、 それが、岩の上に人生を築く事の出発点になる!そして岩の上に人生を築く為に、 更に何が起こっても倒れない・倒されない・そしてひどい倒れ方をしない為に、 「神様の御言葉に聞き従って生きる事」それが、人生の処方箋・生活の処方箋 なのである。 これは、多くのユダヤ人に語られたメッセージであるが、同時に私たちにも そしてクリスチャンにも語られている重要なメッセージである。 もっと言うならば、イエス様を信じるクリスチャンの当然の生き方が提示されて いる。しかし、もちろん「義務感の生き方ではない。必死に頑張って当然の生き方 にするのでもない。」それは「イエス様の十字架の愛を土台とした関係性に基づく 自然な生き方の中心にある当然の生き方」である。 ところが・・?クリスチャンであっても「砂の上」に家を建てながら生きている 人がいる。イエス様の愛の警告どおり「ひどい倒れ方・再建不能な倒れ方」をする 候補者に、自らが立候補しながら生きているクリスチャンが存在する。その特徴は 御言葉に聞き従わず、自分の「価値観・思考・計画・策略」に基づいて自己満足を 追求する生き方であり、自分勝手な信仰観に基づいて物質を追求する生き方。 「お金・地位・名誉・権力・肩書・学歴」それがあれば鬼に金棒・・・? イエス様は、そんな生き方にメスを入れておられる。 「ひどい倒れ方」をする!と。 そうなる前に「悔い改め・神様を第一に求め・生活人生を委ね明け渡し・そして 神様の御言葉に聞き従っていく!」これが揺るがない土台の上に人生を築く事で あり、何が起こっても倒されない人生を生きる事。今、そんな時代を本当に迎えて いる事を痛切に感じている。謙遜に遜って、イエス様の愛のメッセージに 「アーメン」と応答する者でありたい! 神の国と神の義をまず第一に求めて生きる!これが、旧約〜新約時代に貫いている 重要な原則であり、信仰の世界の法則であり、世の中で生き抜く術である! |
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「信仰と信じ方をごちゃまぜにしてはいけない」 | |
聖書の中心は「イエスキリストの福音」である。十字架の福音の恵みに基き、 イエスキリストを信じる「信仰」によって救われる事が出来る!まさに「信じる 者は救われる!」これが、世界共通の普遍的真理である。信仰によって「罪が 赦され・罪から解放され・神様の子供となり・永遠の命を得・天国行きが決定 する・その保証として聖霊を受ける。」これらは、救われた瞬間に起こる事で ある! しかし「信仰によって救われる」と言う事が聖書(福音)の全てではない。 実は、それは救いの入口に過ぎない。イエスキリストが「私は門です」と言われ たように、それは救いの門を通過したに過ぎない。(もし信仰によって救われた 事が全てであるならば、66巻のぶ厚い聖書など必要なくなってしまう。) ではなぜ?こんなに聖書が、ぶ厚いのか?「信仰」によって救われた後の 「信じ方」が啓示されているからである。「信じ方」=「神様との関わり方」 と言い換えてもよい。つまり「信仰」と「信じ方」は別の事なのである。 問われている事は、「どのようにイエスキリストを信じるのか?自己中心的に 自己流で信じるのか?⇔それとも神様を中心として聖書に従って信じるのか?」 その信じ方によって、神様と自分自身との関係性が決定するのである!もし、 信仰が自己流になって神様との関りが(弱く・薄く・浅い)ならば、当然信仰も 弱く・薄く・浅くなる。そのように信じ方は、信仰に多大な影響を与えていく のである! この信じ方の領域に「洗礼を受ける・教会に所属する・礼拝を捧げるなど」の 信仰生活や教会生活が含まれている。であるならば「信仰」と「信じ方」は、 とても深い関係にあり、切っても切れない関係性にある事がわかる!ところが、 そこに人間が生まれながらに持つ罪の性質である「自己中心性」が、嫌が上でも 出て来てしまう。「洗礼を受けないとダメ?・洗礼を受けないと救われない? なぜ教会に行くの?」これらの疑問に対する答えが、聖書に明確に啓示されて いる。洗礼も教会も必ず必要である。それが、神様が願っておられる健全な信仰 に繋がっていく信じ方であるからだ! 自己流の信じ方は危険である。なぜなら自己実現の為、自己目的達成の為に 神様をご利用しようとする「ご利益信仰」にすり替わっていくからだ。そして 自己中心性(我流)から出て来るものは、「妥協・惰性・堕落」であり「言い訳 口実・弁解」であるからだ。次のように言われる事は光栄だろうか? 「あなたの逃げ方、あなたの言い訳、いつも見事なほどまでに素晴らしい!」 こんな生き方は、実に恥かしいのではないだろうか? ヤコブ書に「行いのない信仰は死んだ信仰である。」とある。この真意は、 信じて救われた者(イエスキリストの命を得た者)は、その命によって当然、 行う人に変えられていく!という意味である。逆の意味を言うならば、行いが 伴わないクリスチャンは、信じ方に問題がある!と言って良い!それは間違い なく不健康で不健全な信仰である。 「信仰」と「信じ方」をごちゃまぜにしてはいけない。信じる信仰があれば それでOK?いや違う!その後の信じ方のほうが、もっと重要である。そして 信じ方の領域にも福音の恵みは、ちゃんと備えられている! あなたはどんな信じ方をされていますか?パウロは語っています。 「何が神の御心で神に喜ばれるのか、心の一新によって自分を変えなさい。」 御霊に属するのクリスチャンは、ごちゃごちゃ言わずにイエスキリストを主と して神様に従っていく信仰者である。 「なぜ?」と言う問い掛けを十字架につけて、私も神様に従う者でありたい。 イエスキリストと神様との関係性ほど愛に満ちた強固な関係性はない。その イエスキリストの十字架を目指した生涯、その生き様は、信じ方の最高のモデル である! 神様中心の信じ方、それは「自分の負うべき十字架を負って生きる事」であり 最高で最強の人生に繋がっていく。ハレルヤ! |
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「私たちの未来はNever End?」 | |
かつて有名なアーティストが歌っていた「Never End 私たちの未来は〜」 この世界は決して終わらず未来は永遠に続いて行く!?この考え方の根底には、 進化論的な背景が根付いているのだと思う。目に見える世界は進化して来て、 これからも進化していく。でも・・・本当にそうだろうか? 民間で運用されている「世界終末時計」なるものがある。これも年月と共に 時間が短縮されている。SDGs(持続可能な開発目標)が掲げられた背景にも この世界は「そう長く持たない」という危機感があっての事である。 今後、世界的な食糧危機の時代が来ると言われている。それだけではない。 気候変動による温暖化、様々な災害、ウイルスの猛威、戦争の問題など、この 世界は「Never End」どころか「The End」に向かっていると多くの人々が 危機感を募らせている昨今であり世界情勢である。 ところが、「宗教」というフィルターを通して「世界は滅びる」と聞くと、 多くの人々は「怪しい?・危険な発想?・脅し?」と捕えてしまいやすいのも 否定できない事実であると思う。あなたはどうですか? 聖書は、生ける真の神様の言葉であり、神様からの啓示の書物である。そして 預言的な言葉も含まれている。その聖書が「終末時代」を明確に語っている。 この世界は、大きく二つの方向に向かっていると! @「神様は、罪に満ちた世界と罪人を裁かれ滅ぼされる(地獄がある)」 A「神様は、イエスキリストを通して救いの道を備えて救われる(天国もある) 神様の基準は、「信仰によって命を得たか?・罪によって死んでいるのか?」 である。つまり人間の善悪の基準ではない。「罪=死」であり「義=命」、 これが神様の基準である。 イエスキリストは言われた。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。」 神の国とは(神様の主権・神様の支配)であり、神の義とは(神様との関わり) である。つまり神様と人間との関係性を表すのが「神の国と神の義」であり、 神様との関りの中に身を置きながら神様の主権の中を生きて行く事を第一に 求めなさい!と言われたのである。なぜならば、人間は神様を中心とした関係性 の中に生きる者として造られた存在であるからである。 神様の義の基準は、人間側の行い(善悪)ではない。良い事を積めば天国? 悪い事を積めば地獄?そんな曖昧な基準ではなく神様の義の基準は、イエス様の 十字架にある。十字架によって罪が贖われ、信じる者は罪から救われて神様との 関わりの中に身を置いて生きる事が可能となる。そして心の王座をイエス様に 明け渡す事こそ、神様の主権の中を生きる事なのである。そこに健康な人間と しての健全な営みが約束されている。 間もなくイエスキリストは、再び戻って来られる。(再臨される!)その時、 この世界は二つの分断される。天に「携挙される組」と地上に残される「居残り 組」である。残されてから慌てて「信じたり・信じ直したり・泣きわめいたり・ 不公平じゃないかと訴えたり」してもある意味、もう遅い。だから聖書は愛に よって警告している。「目を覚ましていなさい!」と。 神様の国(天国)こそ「Never End」である。ハレルヤ! |
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「宗教の始まり」 |
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世界三大宗教とは「キリスト教・仏教・イスラム教」と言われている。しかし 近年、そのような表現もあまり聞かれなくなった。歴史がある宗教も新興宗教も 全部、ごちゃまぜにした「宗教」であり、そして「宗教=危険」と言うイメージ だけが、独り歩きして人々の脳裏に焼き付けられている。 確かに、宗教の世界にもトラブルがあり、キリスト教会の中にも全くないわけ ではない。互いに弱さを持った人間同士の人間関係を避けて通れないので、単純 な事を言えば、人間関係のトラブルも起こり得る。ちなみに「イエス様」は、 罪を犯した事がない完璧な方(神であり人間でもあった)であられたが、相手が 完璧であれば何のトラブルも起こらないのか?と言うとそうではない。 相手が完璧であっても、それに相対する側は完璧ではないので、トラブルが起こ ってしまう。 例えば、イエス様の言動は、全て正しかった。全ては「100%の愛であり100 %の義」でもあった。愛に対して文句を言う人はいない。しかし・・・、 義(正義=正しい事)に関しては文句を言いたくなる。「言い訳・弁解・口実」 と言っても良い。そしてそれは、相手に対する「非難・攻撃・中傷」と言う形に 変異する。なぜなら人間は罪人であるからだ!「これは間違い・これが正しい」 と言われると、たとえそれが「真実」であったとしても、「自己義・自己保身・ プライド」が邪魔をして自分の非を認められず、トラブルになっていく。だから こそイエス様は、罪を犯していないにも関わらず「十字架」に釘付けにされた。 宗教の起源、それは「○○教」ではない。聖書の中に宗教の起源が、明確に 記されている。宗教とは「人間が自分勝手に神様に近づこうとする事」である。 それが創世記に出て来る。アダムとエバの二人息子の「カイン」が、最初に 宗教を作り出して、やがて兄弟同士の殺人事件に発展する。 アベルは「動物の捧げ物」で礼拝した。カインは「自分が作った作物の捧げ物」 で礼拝しようとした。しかし、残念ながら神様は、カインの捧げ物(礼拝)には 目を留められなかった。これが宗教の起源である。 つまり宗教とは、人間が勝手に作り出した「神に近づく方法(手段)」である。 それが、人間の考えに基づいて「神様になる方法・天国に行く方法」へと変異 して行き、それが「信仰されて様々な宗教」という形になってきたのである。 キリスト教にも「異端」と言われる新興宗教がある。キリスト教の名を語った 偽物と言ったらよい。異端と書くように「端っこが異なる」からよく似ている とも言える。「聖書」を誤用しているからである! でもキリスト教は、一般的に言えば宗教であるが、厳密にいえば宗教ではない。 キリスト教とは「神様からの啓示・神様と人間との関係」である。人間側からは 神様に近づく事が出来ない存在(罪人)なので、神様の側から近づいて来て 下さった。それがイエスキリストであられる。神の姿を捨てて人間となって 来られた。聖書の中には「罪人が真の神様に近づく方法(神様に関わる手段)」 が記されている。 だからクリスチャンは、「キリスト教」を信じているのではなく「今も生ける イエスキリストご自身」を信じているのである。2000年前のイエスキリストの 教えを信じる宗教でも無ければ、過去の偉人として信じ礼拝している宗教でも ない。イエスキリストは言われた。「私が道であり真理であり命なのです!」 イエスキリストを通してのみ人間は「神様を知る事ができ・神様に近づき・ 罪が赦され・天国に行く事ができる」のである! 「宗教=危険」だからキリスト教も危ない?これは風評被害のなにものでも ない。本当に危ない問題、それは外側にあるのではなく人間の内側にある問題、 罪という問題である。罪が、人間の心を悪へと誘っていく。それが様々な悪行 となって外側に暴露されてくる。「義人は一人もいない」と聖書にあるように 私も例外ではない!でもイエスキリストによって、罪の奴隷から解放され救わ れた! こんな時代だからこそイエスキリスト、このメシヤを知って欲しい! |
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「本当の教会」 |
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先日、礼拝の中で洗礼式と転入会式があった。私たちの教会の長所は、愛が ある家族的な教会と言う事である。人数的には、教会に出入りしている方々は、 30人強程度である。日本の平均的な人数の教会と言ってよい。 教会を図る見方の一つに「人数」がある。「何人ぐらい?集まってるの?」 もちろん人数がどうでも良い?とは思わない。しかし人数で図ると言う見方は、 あまりにも世的で人間的な事に過ぎない。なぜなら教会にとって一番大切なの は、人数ではないからである。 では「何が重要なのか?幾つか列挙してみる・・・」 ※イエスキリスト中心の教会である事が最も大切である ※聖書を神様の言葉と信じて聖書を土台としている教会 ※互いの間に流れている空気が愛である事 ※様々な世代が集い合って一致している事・・・などなど 私たちの教会は、10代未満から20代・30代・40代・50代・60代・70代 と各世代が集う教会である。しかも5か国の人々が集まっている。そして家族的 な教会である事が、何より嬉しい限りである。愛し合う事においては、その途上 にある。これらを表しているのが、洗礼式や転入会式の最後である!円になって みんなでウエルカムタイムを持つ。みんなで歓迎し合うのだ。これが、何とも 言えない感動の瞬間! これが、人数の多い教会となると、実はそうはいかない。人数が多ければ、 それでOK???とんでもない!例えば、ある大きな教会に古くからの知人クリ スチャンがいる。そのクリスチャンがぼやいていた! 「人数が多すぎて誰が誰だかわからない教会って?教会・・・?」 複雑な表情で語ってくれた!結構、深刻な問題である! イエス様の12人の弟子でさえ、なかなか一致する事ができなかった。つまり 人数が多いほど一致する事が難しくなる。逆に教会の分裂だって起こり得る。 その要因は、 ※人数が多すぎる⇒牧会(羊のケア)ができないので野放し状態になる! ※礼拝の数が多すぎる⇒出入りするだけで大忙し!限定された交わりになる! ※各礼拝ごとに派閥が起きて裁き合う事が起きかねない・・・ 教会の価値は人数ではない。イエス様は言われた。「あなた方の間に愛がある なら・・・」真岡カルバリの丘チャペルは、互いの間に愛が流れている教会を 目指している教会である!イエス様が人気取りのメシヤにならなかったように、 私たちの教会は表面的な人間の評価を求めていない教会である!ハレルヤ! |
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「マナー違反」 |
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オリンピックの男子マラソンでスポーツマンシップに反する事、つまりマナ ー違反行為が行われたと騒がれている。先頭集団が、30キロ地点に差しかかっ た給水ポイントでフランスの代表選手が、テーブルの上に置いてあったペット ボトルを全部倒し、最後のペットボトルだけを取って走り去った。 それをYouTubeで見る事ができるが、確かに手が滑って倒してしまった? というよりも意図的で故意に、つまり悪意を持って倒したように見える。これが 他の選手に対する妨害行為とされているのだ。高温多湿の中、選手にとっては、 まさに「命の水」である。もし仮に手が滑って倒してしまった?という事で あったとしても自発的に告知して謝罪すべきである。それがスポーツマンシッ プ(マナー)である。これは人間性に関わる問題でもある! 世の中には「先生」と呼ばれる職業の方が多い。「医者・弁護士・司法書士・ 税理士・学校の教師・ピアノ教師・リトミック教師などなど・・・」 そして牧師も先生と呼ばれている。日本の教会では一般的にそうである! 「先生」と呼ばれている方に対して「先生」と呼び掛けるのは、世の中の当然の マナーである。それは相手に対する敬意の表れでもある。私は、幼稚園時代から 大学時代、そして聖書学校時代も今も「先生」という立場の方を「先生」と呼び 続けている。 ところが「先生」と呼ばれる立場の人に対して「先生」と呼ぶ事ができない マナー違反の人間もいる。それは礼儀に反する非常識な行為である。礼儀・礼節 とは、とても重要だ!それは人間性にも関係してくる! なぜ呼べないのか?聖書からわかる。ユダヤ教の指導者たちは、イエス様の事 を「ラビ(指導者=先生)」と呼ぶ事が出来なかった。いや!呼びたくなかった と言った方が的確である。彼らは「見栄とプライド」に満ちた罪人であったから である。これは私の経験値からも言う事ができる。、「見栄とプライド」が、 邪魔をするのだ。すなわちそれは、その人の「内側にある問題」が暴露され露呈 している証拠である。 とにかく世の中には「見栄とプライド」の塊で生きている人間がいるのは間違 いない。弱い存在であるのに一生懸命に弱さを隠してながら生きている。これは アダムとエバが、罪を犯して「イチジクの葉」で自分の裸の恥を覆ったことに 由来する。 イエス様は弟子に言われた。「あなた方は先生と呼ばれていはいけない!」 この言葉を勘違いしている方がいる。これは、先生と呼ばれること自体を禁止 した言葉ではない。原語の意味はラビ(ユダヤ教の指導者をラビと呼んでいた) である。イエス様は、まさにユダヤ教のパリサイ人や律法学者を指しながら弟子 に言われた言葉である。なぜならパリサイ人や律法学者たちは、わざわざ目立つ 街角に立ってユダヤ人から「ラビ」と呼ばれる事を通して優越感に浸っていた からである。彼らこそ「見栄とプライド」の塊で生きていた偽善者であった。 イエス様は、そんな「見栄とプライド」はいらないと弟子たちに言われたので ある。「見栄とプライド」は、人間の心を腐敗させる厄介なものに過ぎない。 互いに、いつでも謙遜になり遜ってマナーに生きる者でありたいと心から願って いる! |
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「神の義が啓示された福音」 |
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「義」と聞くと連想するのは「正しい人間・良い行い・正義感」そのよう な人間側に寄り掛かった「義」であると思う。しかし当然であるが、完璧な 人間などいない。つまり完璧でない人間の行いは不完全な行為である。人間 の正義感も自分の置かれた状況や環境によって変わってしまうものであり、 自分の都合によって幾らでも不義に成り下がってしまう安っぽいものに過ぎ ない。結局人間は、罪人(不完全な存在)と聖書にある通りであり、そのよ うな人間側に義を求めても、罪人は義なる神様の前に義になり得ない。 仮に、神様の義のレベルが100として、ある人は50・ある人は30・ある人 は10と、人間のレベルの差は出てくるかもしれない。そして50のレベルの 人は、10のレベルの人よりもまだ良いという自己弁明をするかもしれない。 しかしそれは、神様の前には通用しない「自己義」に過ぎないのである。 罪の本質は「的外れ(神様という的を外している事)」を意味する。人間側 には程度の差があっても全ての人は神様の前に「的を外した罪人。」 だからこそ人間の義は、万人において神様の前に通用しないのである。 神様は、人間が救われる為に完全な義を求めておられる。しかし述べた ように、罪人に完全な義を要求しても不可能である。この原理で言えば、 罪人は滅びる呪いの運命にしかなかった。「罪から来る報酬は死(滅び) です」と聖書に書いてある通り、救われようがない存在。 そこでアメージンググレース(びっくり仰天する恵み)と表現される福音 (グッドニュース)が2000年間、語り継がれている。 義なる神様は、罪人を救い出す為に要求されていた完全な義を貫く為、 イエスキリストに人類の罪を背負わせ、罪の刑罰を降して見殺しにされた。 そしてイエスキリストは文字通り死なれ、地獄にまで降っていかれた。 イエスキリストの身代わりの犠牲、神の御子の聖なる命が捧げられ支払われ た尊い代価!このようにイエスキリストの十字架によって死刑執行を成し 遂げられ、ご自身の完全な義を貫かれた。 イエスキリストの十字架の福音には、神様の完全な義が啓示されている! 神様は愛であり義でもあられる。愛と義の板挟みの中で葛藤された神様は、 罪に対する怒りのほこさきをイエスキリストに向けられ、イエスキリストを 通して罪人に救いの道を提供して下さった。神様の心は、想像を絶する苦悩 と痛みであったはずである。 人間側の義ではなく、福音の中に啓示された神の義に寄り掛かった救いで あるからこそ、この救いは絶対的な救いであり、どんな人もイエスキリスト を信じる信仰によって救われると断言する事ができる! この点からもキリスト教は宗教ではない、という事ができる。宗教は人間側 に焦点を合わせる。しかし聖書は、初めから終わりに至るまで神様の御業に 焦点を合わせている。 「天下にイエスキリスト以外に救いはない!」 クリスチャンは、キリスト教を信じているのではないく、復活された生ける イエスキリストを信じている!あなたも出会う事ができる救い主である! |
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「謝罪」 |
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オリンピック組織委員会のM会長が、失言によって謝罪した。しかし、 更なる波紋を広げてしまう結果となった。なぜなら謝罪する気持ちが見られ なかったからである。それ以上の問題は、「逆切れしてしまった有り様」 謝罪会見で逆切れする!これこそ謝罪する気持ちがなく表面上の形だけの ものであった事をよく表している。 謝罪とは何か?「反省」という表現が使われる。しかし日光の猿軍団でも 反省はする。もっと突っ込んで「内省」というものがある。自分の内側を 見つめて反省する。しかし、すぐにでも元の自分に戻ってしまうのでは? ないだろうか?実は、これは当然の事である。聖書から答えを見つける事が できる。「罪の性質」とは必ず「心が堕落して腐敗していくもの」である からだ。人間の心を蝕む罪の性質は、放っておけば「衰退していく性質」で 厄介なものである。「罪の性質(自己中)」=「死(滅び)」と覚えると 忘れない。 そこで聖書が明示しているが、「悔い改め」である。ただ悔いるだけでは 意味がない。涙を流して「清算?・泣き落とし?・自己満足?」それは 幼稚な子供の常套手段に過ぎない。悔いた後に「改める事。」 この意味は「方向転換」である。神様の前に出て、神様の前に向き直し、 神様の前にへりくだる。そこには、自分の「思考」、自分の「生き方」、 自分の「人生」を方向転換する事が伴わなければならない。 つまり古い自分、古い思考、古い生き方、古い人生は、神様の前に捨て去る 事である。自分で握りしめているものを手放す事である。 そのエビデンスは、イエス様が、それをして下さったからである。 イエス様は、罪を犯した事がない聖なる清い方。そんな神様であられた イエス様が、自分・思考・生き方・人生、その全てを捨てて十字架に釘付け になって下さった。 本当の謝罪は、肉に支配された自分自身が十字架に釘付けになる事である。 それが新しい命に生まれ変わる接点である。それが新しく変えられた自分 として新しく生きる秘訣である。真の謝罪、真の悔い改めをした人からは、 イエス様の香りがしてくる。イエス様の姿が見えてくる。イエス様の命が 流れてくる。 いつでも新しく生まれ変わった者として新しい心で生きる者でありたい。 それが神様と人とに愛されながら生きる幸せな人生である。アーメン! |
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「認めない・謝らない・責任転嫁」 |
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大統領選挙が行われた。トランプ氏は敗北。バイデン氏が圧勝だったよう である。しかしトランプ氏は、負けを「認めない」、一票を投じた支持者に 「謝らない」、郵便投票を含めた選挙方法に問題があるとして「責任転嫁」 している。カッコ悪い姿を曝け出していると感じているのは、私だけであろ うか? この所コロナ感染者が急増しているが、政府の見解は「国民の気の緩み」 が感染を拡大させているという事である。しかし「?」を感じている国民は 大勢いる。政府もまた「認めない・謝らない・責任転嫁」の罠に陥っている ように感じて止まない。 この悪い3拍子「認めない・謝らない・責任転嫁」は、最初の人間である アダムとエバが、神様の前に罪を犯した時から人類が受け継いでしまった 罪の性質から出て来る厄介なものである。彼らは、悪魔に誘惑されて禁断の 実を食べて罪を犯した。そんな彼らに対して神様は、「どこにいるのか?」 と御声を掛けられた。しかし彼らは、「神様を恐れて身を隠したのだ。」 その後、責任転嫁が始まってしまった。 つまり「罪を認めず・犯した罪を謝らず・誰かに責任転嫁」をしたのだ。 この負の性質を全ての人間が、多かれ少なかれ心の中に隠れ持っている。 人間関係や国境を越えて争いを起こさせる厄介な性質である。 もちろん私の中にも! しかし、神の姿を捨て人間となられてこの世界に誕生されたイエスは、 「認める・謝る・自己責任」を貫かれたメシヤであられる。 イエスは、罪を犯した事がない罪なき聖なる方であられたのに「罪人とされ 十字架で死の刑罰を受けて下さり、罪を完全に処理して下さった。」 全人類の罪を身代わりに背負って下さったのであり、人類の罪をご自分の罪 として「罪を認められたのだ。」 イエスは、十字架で釘付けになられた状態の中でこう語られた。「父よ、 彼らの罪を赦して下さい。彼らは、自分で何をしているのかわらかずにいる のです。」ご自分を十字架に張り付けにした人々に対して「神様に赦しの 祈りを捧げられた。」まさに何をしているのかわからない人々の代わりに 「ごめんなさいと謝られたのだ。」そして自分を苦しめた人々の罪の赦しを 求められた。何をしているのかわからない人々とは、私たち全ての人間を 表している。 イエスの十字架刑は、人類史上最大の冤罪事件である。罪なき神の御子が、 罪人とされて十字架で見殺しにされた。本当は「罪から来る報酬は死です」 と聖書にある通り、罪人である私たちが、死んで(永遠の滅びという意味) 罪を償わなければならなかったにも関わらず、イエスが身代わりに罪を 償って下さったのだ。つまり罪の責任を負う必要が無かったイエスが、 「責任転嫁」をされたのではなく、罪の問題を「自己責任」とされて罪を 贖って下さったのだ。※「贖いとは代価を支払って買い取るという意味」 このイエスの十字架を知った者は、イエスの愛と犠牲のゆえに「認める・ 謝る・自己責任」で生きるように変えられていく。イエスの復活の命で、 私たちも新しく生まれ変わる事ができるからだ! 最初から最後まで「認めない・謝らない・責任転嫁」を見事なまでに貫く 人がいる。つまり「プライドの塊・頑なな心の持ち主・見栄と虚栄心」で 生きている人である。そういう人からは、肉の性質の悪臭がプンプン漂って くる!しかしクリスチャンは、イエスの香りを放つ存在とされている! だからこそいつも自己吟味が必要である。「自分は大丈夫だろうか?」 聖書は語る。「神は高ぶった者を退け、遜った者を高くされる。」 時代は、ますますAI化されていくばかりであるが、そんな中で本当に必要な ものは「豊かな人間性」だと確信している。それが最後まで生き残る術で ある。いよいよ「認める者・謝れる者・自己責任で生きる者」に変えられて 行きたいと願う。 「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。(聖書)」 |
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「心変わり」 |
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人が変わってしまう事ほど悲しい事はない。以前とは違う態度、接し方 そして裏切り行為。誰もそんな経験はしたくないはず。でも多かれ少なかれ 誰でも経験した事があるはず。被っていた仮面が剥がれて化けの皮がむけた 時の本性は、実に怖い。人間関係の中では、いつでも起こり得る。 イエス様の弟子であったユダは、僅か銀貨30枚で師匠であったイエス様を 裏切った。金に目がくらんで売り飛ばした「裏切者のユダ。」彼は、いつの 時代もそう言われ続けている。イエス様も悲しかったはず。 人間は本当に気紛れである。ついつい自己中心的になりがち!その自己中 から出てくるものは利己心。こいつが厄介で相手を利用したくなる。そして 利用するだけ利用して「邪魔臭い存在になるとポイ捨て」をする。悪魔 (サタン)は、この手でユダを利用した。そして最後は、利用したユダを ポイ捨てした。さぞかしユダは、バカを見た事であろう。ユダに残された ものは「後悔と罪責感。」そして追いつめられて彼は自殺した。聖書には 「滅びの子(地獄の子)」と書いてある。悪魔に気を付けよう! 自分を健全に受容して自分を健全に愛する事ができないと、それは懐疑心 (人の親切な行為や優しい言葉を素直に受け取れない心)となり、自己を 卑下する事(自分を低く見て自己否定してしまう事)にもなる。セルフイメ ージは重要である。人間は「神様に似せて造られた存在」そして「神様に 無条件で愛されている存在」これがアイデンティティである。 しかし、余りにも複雑な人間関係から自分を見失い「突然鬱」になる時代。 教会にも電話が掛かって来る。「話を聞いて欲しい!助けて欲しい!」 それが本音である。しかし更に厄介な事に、日本は恥の文化。とにかく恥を かきたくない国民性である。人に自分の弱さを知られたくないし、見せたく ないのである。「弱さ=恥ずかしい事。」益々、自分の心を欺きながら そのようにして精神が病んでいくばかり。本音で生きる事ができたなら、 どんなに楽になる事か・・・ 出来れば、心変わりはしたくない。そして心変わりをされたくない。でも 「愛は傷つく」と言われたマザーテレサの言葉が心に染みる。愛に生きよう とすると傷つかずにはおれないのである。しかし、たった一人だけ絶対に 変わらない方がいる。死の力を打ち破って甦られたイエス様である。 イエス様の愛の中に留まり続けよう。真実の愛に触れる時、心は癒される! |
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「授業参観」 |
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私が小学生の頃、授業参観の想い出と言えば、恥ずかしかった事しか 覚えていない。勉強が出来なかった私は、親に良い所を見せる事が全く 出来なかったように思う。期待はずれ!しかし、それでも親が見に来て くれたのは、嬉しく感じたものである。 牧師になって、これまでに教会を出入りした子供たちは30名を超える。 既に社会人になった若者たちもいる。ちなみにNちゃんは、高校卒業後、 真岡市内の某病院に就職した。ある時、その病院に行った際、Nちゃんが 声を掛けてくれた。立派な社会人に変貌していた。その日、Nちゃんは、 仕事帰りにわざわざ教会に立ち寄って、差入れを届けてくれた。本当に 嬉しかった出来事である!ある子供は学校に行けなくなったりと戦って いる。昨年のクリスマス、娘と一緒にクリスマスカードにメッセージを 書いて届けた。少しでもイエス様の愛を受け取って欲しいから・・・ この30数名を超える歴代の子供たちの授業参観に行っている。それも 牧師の仕事の一つである。積極的に関わり愛を表す!大切な事である。 でも現代社会においては忘れ去られようとしているコミュニケーション かもしれない。(そんな関わりはウザい?)人間関係が、希薄になって 来ている時代だ。 それぞれ小学校・中学校が違う。それでも出かけていく。みんな最初は、 驚いた顔をしている。「え?なんで光信先生、ここにいるの?」そんな 表情である。そして照れ臭そうにしている。でもじーっと見つめる! 「見てるよ!・気にしているよ!」 親以外の他人が授業参観に来て自分を見ていてくれる!そんな小さな愛の 行為が、案外子供の心を捉えたりする。後日、話を聞くと「嬉しかった」 と言ってくれる子供たちが大半であった。授業参観に行って必ずする事は、 クラスと担任教師の祝福を祈る事である。 娘が幼少期、「ねぇ、パパ見てて」と言って何かの行為をしていた。 例えば、「高い所からジャンプする」など。ちゃんと見ていて欲しい。 知っていて欲しい。 これは人間の心の中にある深い欲求かもしれない。なぜなら人間は、神様 に造られた存在であり、神様の愛の視線を受けて神様に見られながら生き る存在であったからだ。でも人間は神様を見失ってしまった。受けるべき 愛の眼差しを見失ってしまった。それ以来、人間は愛の眼差しを必要と している。 知って欲しい。イエス様は、あなたを愛している。あなたを見ておら れる。あなたを知っていてくれる!今日も愛の眼差しを注ぎながら守って 下さる神様である! |
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