このあかしは、2005年3月21日に執り行われた献堂式に配布した小冊子をネット上に記載したものです。
新会堂が与えられるまでの苦悩や葛藤、戦いを赤裸々に書き記した「人間模様」が記されています。
この目的は、「人間の弱さ」とその人間を愛の御手で優しく取り扱って下さる「神様の愛と恵み」が、
いかに大きなものであるのかをお伝えし、神様に全ての栄光を帰すためのものです。

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真岡市開拓伝道への導き

 私たちの開拓伝道は、1999年4月から始められました。この働きは、母教会である宇都宮福音キリスト教会に
与えられた「栃木県内の12市にブランチ教会を生み出す!」というビジョンに基づくものです。

 「真岡市」という地域を開拓候補地に選定した理由については、私の母が真岡市出身ということもあって親類が
在住していたので、その方々に福音を伝えたいという思いが前提としてありました。しかし、その理由だけで開拓
候補地として選定するのは、余りにも不安がありました。そこで、主の明確な導きと確信を求めて、妻と二人で
名古屋にある「泉の森」という断食祈祷院へ出掛けたのが、1998年5月の事でした。

 断食祈祷をするのは、初めての経験でしたが、私は述べ10日間、妻は述べ14日間にも及ぶ、完全断食祈祷に
なりました。

 そこで主が、次の二つの事を示して下さいました。
1 断食祈祷の中で一つの幻を見ました。突然、目の前に魚が現われ、泳ぎ回っていたのです。するとその魚が、
 私から逃げるように少 しずつ離れて行ってしまうのです。その時、私の霊はうめきました。そして主に、
 「魚(魂)が逃げないうちに、私を真岡に遣わして下さい!」と必死に叫び求めたのです。

2 『すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖な
 る所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(ヨシュア記5:15)』

 ヨシュアがした足の履物を脱ぐという行為は、次に挙げる三つの意味がありました。
@主の戦いの為に、自分を聖別すること。
A自分は、主の奴隷であること。
B自分の権利を主張せず、主に権利を譲渡すること。
 いずれも献身を意味しているこの御言葉が強く示され、「真岡の地に行って自分の履物を脱ぎなさい。」という
導きを主からいただきました。そして断食祈祷後、妻と共に真岡まで足を運び、雑木林の影に隠れる位置に車を
止めて、車中で履物を脱ぎ、ひざまずいて主の前に祈りを捧げました。(数年後にわかった事ですが、この時、
履物を脱いで祈りを捧げた場所は、6年間居住してきたアパートから見える位置だったのです。勿論、新会堂建設
現場からも見えますので、開拓伝道の拠点となる場所を主は備えていて下さったのです。この出来事は、決して
偶然ではなかったと思います。)
 あまりに単純で、愚かな行為に見えるかもしれませんが、これは真岡の開拓伝道の為に、「自分を聖別すること」、
「主の奴隷であること」、「自分の権利を捨て去って主に権利を譲渡すること」の信仰告白であり、献身表明でも
ありました。
 主の前に献げたこれらの行為によって、真岡市開拓伝道の召しと確信、そして信仰と勇気をいただくことが出来
たのです。

開拓伝道の拠点となる住居選び

開拓伝道の働きを具体的に進めていく為には、まずその土地の住人になる必要がありました。又同時に、母教会
から独立して、真岡の地で礼拝を捧げたいという願いもありました。そのような中で、どういう場所(方法)で開拓
伝道を始めるのか、幾つかの選択肢がありましたが、私たちよりも先にアパートで開拓伝道を始めていた「小山
コミュニティチャペル(万年宣義師)」に倣ってアパートを捜し始めました。それが、1998年の夏から秋にかけて
の頃でした。
 宇都宮福音キリスト教会は、多くの献身者を生み出した教会です。そして多くの犠牲(特に経済的な犠牲)を払っ
て、伝道者の働きをサポートし続けて下さいましたが、ちょうど私たちがアパートを捜し始めた頃(1998年度)、
母教会の会計は厳しい状況にありました。そして、「経済的な事情により、来年度(1999年度)から牧師以外の
伝道者たちの給与は、一切支払うことは出来ません。」という宣告を教会側から受けてしまいました。

 私にとっては、来年度から真岡で開拓伝道を始めるというビジョンを掲げて、まさに一歩を踏み出そうとしていた
矢先の思いもよらない宣告でしたので、出鼻をくじかれたような感じがしました。その時、私の心の中に、「経済的
なサポートが無くて、しかも慢性肝炎で体が疲れやすいという持病もあって、そんな中でアルバイトをしながら、
ゼロからの開拓伝道が本当に出来るのか?」という様々な不安と恐れがやってきました。そして、自分なりに三つの
選択肢(別の言い方をすれば、「幾つかの逃げ道」)を挙げて、葛藤する日々を過ごしました。

1 それでも真岡市に開拓伝道に行くか。
2 妻の実家である綾部キリスト福音教会に行くか。
3 下館に無牧の教会があるので、そこに行くか。
 しかし、私には選択肢など与えられていませんでした。なぜならこの時、既に真岡市開拓伝道の召しを主からいた
だいていたからです。それを状況が悪くなったからと言って、その召しを自分勝手に変更することは、不信仰であり、
主に対する不従順です。主は絶えず、「それでも私に従って来るのか?」と問い続けて下さったのですが、この出来事
は、主に対する私の献身が、振るわれる大きなチャレンジとなりました。

 そのような状況の中で私たち夫婦にとって、あの断食祈祷院での出来事が大きな備えになった事は、間違いありま
せん。やがて、これまでの6年間居住してきた家賃63,300円のアパートへと導かれたわけですが、アパートの仲介
業者と賃貸契約を結ぶ際、「真岡で死んでもかまわない!」という気持ちで、契約書にサインした事をよく覚えてい
ます。

 しかし結果的には、母教会に配慮していただき、1999年度も継続して経済的なサポートが受けられるようになり、
本当に感謝でした。ハレルヤ。

アパートでの開拓伝道開始

教会名は、真岡カルバリの丘チャペルと命名することにしました。これは、「真岡市が、霊的な意味においてカル
バリの丘(真の丘)となり、イエス様の十字架による救いと癒しと解放の御業が、地域に住む人々に豊かに現される
ように。」というビジョンと願いに基づいています。

 看板を出すことが出来ず、様々な制限がある中での開拓伝道でしたので、地味に、そして地道に始めるしか方法が
ありませんでした。しかし、大阪から戻ってきたばかりの小林頼幸師夫妻が、真岡の地で共に礼拝をする仲間に加え
られ、又、開拓伝道の働きもサポートして下さる事になり感謝でした。又、最初の一年間は、四宮牧子姉(大和カル
バリーチャペル出身)と二人の子供たちも礼拝に加えられました。更に、万年牧師と役員の方々が、毎月第三聖日の
礼拝に開拓応援に来て下さり、大きな励ましとなりました。

 一番初めに手掛けた伝道は、「三分間テレホンメッセージ」でした。この為に綾部キリスト福音教会の朝子孝一師
が、電話回線の権利を無料で貸して下さり、メッセージを流す特別な機械は、峰町キリスト教会の安食弘幸師が、
やはり無料で献品して下さって、本当に感謝でした。

 その他、トラクト配布や路傍伝道、ウォーキングプレイヤーや訪問伝道、クリスマスのイベント等、頼幸師と共に
伝道に励みました。

開拓伝道一年目の二つの転機

 開拓伝道を始めて一年目の終わり頃(2000年2月)、月に一回のペースで通院していた獨協大学病院での血液
検査の結果が、悪化していました。肝臓の働きを表す数値(G〇T,GPT)が、上がっていたのです。担当医師
から、「強力ネオミノファーゲンC」という注射を受けるようにという指示が、半強制的に出されました。そして、
近所にある真岡中央クリニックに、週四回のペースで通院する事になったのです。

 その時の私の気持ちは、主に対する愚痴や不平や不満で満ちていました。なぜなら通院する為には、お金も、時間
も、労力も掛かるし、痛い思いもしなければならないからです。(今、思い返せば、「主に従って犠牲を払って開拓
に出てきたのに。」という高慢な思いが、あったのだと思います。)これが、一つ目の転機でした。

 もう一つの転機は、一つ目の転機に関連がありました。通院する途中に、土地(売地)が多くあり、それをよく
見掛けていたのです。そして私の心の中に、ただ注射して終わりではもったいないし、祈るのは無料だからという
単純な気持ちから、通院の行き帰りの度に「土地を与えて下さい。」と祈るようになったのです。(当時は500坪
で1億2千万円の土地を祈っていました。)

 これが、新会堂建設の為に祈り始める一番最初のきっかけとなった出来事でした。

 思い掛けない朗報

 2000年2月から祈り始めて、その年の12月の事でした。私が献身する前に勤務していたF・S(株)の副社長で
あられるM姉が、献金を持って真岡のアパートに来て下さいました。いつも私たちの事を覚えて下さり、献金とお祈
りによって励まし続けて下さっていましたが、私たちが、どんな場所で開拓伝道をしているのか、わざわざ見に来て
下さったのです。

 アパートの窓から外を見渡されたM姉が、「土地が、いっぱいありますね。真岡の開拓伝道の為に土地と建物を
捧げたいのですが、いかがですか。」と突然、言われました。その時、私が受けた第一印象は、「え?まさか?」
という半信半疑な気持ちでした。しかし新年(2001年)早々、M姉が、ご主人(社長)と共に再度、真岡を訪ね
て下さり、「土地を視察に来ました。祈っていきましょう。」と心躍るビッグニュースを持ち運んで下さったのです。
私たちは、更に具体的に、主に祈り求めるようになりました。

 突然のビッグすぎるプレゼント

 それから三ヵ月後(2001年3月)、ある日突然、M姉が訪ねて来られました。そして、「新会堂建設の為に、
数千万円の献金を用意しますので、今年のクリスマスまでには建つように具体的に進めましょう。」と言われたの
です。
 「空いた口がふさがらない」という表現がありますが、年収200万円にも満たない私にとって、それをどのよう
に受け止めてよいのか、本当にわからず、ただアタフタするだけでした。その翌日も再度、訪ねて来て下さり、
「この土地はどう?」と勧められたのですが、返事のしようがありませんでした。聖書の中に、どんなに良いぶどう
酒であっても、古い皮袋のままでは破れてしまうという話がありますが、まさに私の心は破れてしまいそうでした。

 当然、主任牧師の万年師に相談しましたが、この出来事をどう受け止めてよいのか、万年牧師も少々戸惑い気味で
あったようです。又、教会の役員会の議題にも出していただきましたが、やはり役員の方々にも戸惑いがあったよう
でした。

 忍耐の三ヶ月間

 それから一か月後(2001年4月末)、Mご夫妻と万年牧師と私の四人で、話し合いの時がもたれました。そして
結果的には、万年牧師の提案で、3ヶ月間の祈りの期間を設けることになりました。(恐らく、吟味する期間を設け
たのだと思います。)

 こういう時、主任牧師には従わざるを得ませんが、私の気持ちとしては「間が空いてちょっと楽になったかなぁ?」
という思いと、「献げてくれる物は、さっさと受け取ったら良いのに?」という思いが混在して複雑でした。
 この3ヶ月間、祈りと共に複数の住宅ハウスに図面作成と見積もりを依頼したり、土地を捜したりと具体的に動き
ました。慌ただしく過ごす日々の中で、私にとってこの三ヶ月間は、様々な思いが心の中から沸いて葛藤しながら
忍耐させられる日々となりました。

 あっけない結末

 祈り始めて三ヶ月が過ぎ去ろうとしていた最後の一週間、宇都宮福音キリスト教会のスタッフの先生方が、連鎖
断食祈祷をして下さって共に祈り備えました。そして七月末、M姉から連絡が入り、お会いすることになりました。
その時の私の気持ちは、何と表現したらよいかわかりませんが、口から心臓が飛び出しそうな程の緊張感に満ちて
いた事を今でもよく覚えています。しかし、M姉から思い掛けない言葉を聞くことになったのです。
 ちょうどその頃、Mご夫妻が経営するF・S(株)は、大手の人材派遣会社と合併する話しが持ち上がっていて、
具体的に動き出そうとしていた時であったようです。そして、「合併の為に資金が必要になったので、献金の件に
ついては、とりあえず白紙保留にさせて欲しい。」ということでした。

 全てが水の泡に消えるごとく、まさにそんな出来事であり、この現実をどう受け止めたらよいのか、心の整理が
全くつきませんでした。

路頭にさ迷う日々

描いていたビジョン、夢、希望が、一瞬のうちに消えて無くなってしまった私は、放心状態に陥りました。
そして恥ずかしい話ですが、8月〜9月の2ヶ月間、開拓伝道の全ての働き(礼拝メッセージ、諸々の伝道活動)や
信仰生活に関わる全ての事(聖書を読む事、祈る事、賛美する事)を止めてしまいました。それどころか、誰の
責任でこうなったのかを追求したり、このオトシマエを誰がつけるのか?と愚痴や不平や不満に満ちた日々を
過ごしていました。

 何が一番辛かったのかということを挙げるならば、頭の中で大きく膨らんでいた新会堂のビジョンを全て白紙
にして、限界を感じていた狭いアパートで、もう一度開拓伝道をするという気持ちの切り替えが、どうしても出来な
かった事でした。切り替えようとしても切り替えることが出来ないほど私の心は、憔悴しきっていたのだと思い
ます。その気持ちの切り替えが、どうしても出来なかった私は、真岡での開拓伝道を断念して、妻の実家である
綾部キリスト福音教会に逃げて帰りたいという所まで追い込まれてしまったのです。

 この出来事は、私の献身が再び大きく振るわれる経験となりました。

 たった一言・・・

悶々とする日々を過ごす中で、ある早朝、一人ぼんやりと椅子に腰掛けて、何かを黙想していた時の事です。
(やり切れない思いと格闘していました。)
「お前は、幾つになったのか?」という不思議なささやきが、心の
中に響きました。それは、聖霊様の声だと直ぐに気づきました。「お前は、幾つになったのか?・・・」心の中に
何度も繰り返し響いてきました。

 そして私は、その言葉を自分なりに理解して、イエス様に聞き返しました。
「十字架ですか?」
「これは、私が負うべき十字架ですか?」
「・・・・・・・(沈黙)」
「この出来事は、私が負わなければならない十字架であるならば負います。なぜならイエス様は、僕の為に負う
必要がない十字架を負われたのですから。」

 不思議ですが、私は涙を流しながら素直にそう応答していました。主の御声は、たった一言でしたが、その
一言で十分であったのだと思います。なぜならその時、私の年齢は33歳だったからです。33歳とは、イエス様が
十字架に架かられた年齢です。

 私の心の中には、一つの事がずっと引っ掛かっていました。それは、「誰のせいでこうなったのか?」、そして、
「それをクリアにして責任を取ってもらわなければ、このままでは終われない。」という思いでした。

 しかしイエス様は、その明確な答えを下さいませんでした。なぜ、こうなったのか?という事も教えて下さい
ませんでした。イエス様のファイナルアンサーは、たった一つ「十字架」という答えだけでした。

 私は、自分の身に起きたこの出来事を十字架という視点に立って考えた時に、初めて悟りました。あのカルバリ
の十字架には、イエス様の他に二人の強盗が架けられていましたが、二人の強盗は十字架刑を受けるに値する罪を
犯した極悪人だったので、罰を受けて当然の身分でした。つまり彼らは、十字架上で正当な扱いを受けたという
ことです。しかしイエス様は、十字架刑を受けるに値する罪を何一つ犯していませんでしたので、罰を受ける必要が
一切なかったのです。ですからイエス様にとっては、十字架上で不当な扱いを受けたということになります。
そして、イエス様にその不当な扱いを受けさせた張本人が、この私(小林光信)だということです。
 私の身に起きたこの出来事が、私にとって正当な扱いであったのか、それとも不当な扱いであったのかは、未だに
わかりません。しかし「十字架」という視点に立つならば、十字架には、正当な扱いも不当な扱いも両方含まれるの
で、それ以上、追及する必要がないのです。たとえ私が、不当な扱いを受けたと仮定しても文句を言うことは出来
ないのです。

 イエス様が、答えとして下さった十字架は、「それでもお前は、自分の十字架を負って私に従ってくるか?」と
いう招きとチャレンジであったのだと思います。イエス様は、ご自身が経験された十字架という方法で、路頭に
さ迷い、いつまで経っても煮え切らない私を立ち直らせて下さいました。そんなイエス様に、私は頭が上がらない
気持ちで一杯ですが、この間、多くの方々が、私の為に祈り支えて下さった事も心から感謝しています。(小林
頼幸師の奥さんである「あの知恵ちゃん」が、涙を流して祈ってくれたのですから。そして妻には、さぞかし心配と
迷惑を掛けた事と思います。)

 祈り再開

 2001年10月中旬頃から少しずつですが、土地と建物のために祈りを再開しました。しかし、立ち直ったには
違いありませんでしたが、「祈り」に関しては、多くの戦いがありました。祈る度に様々な思いがやってきたから
です。その多くは、「祈っても駄目だ?」、「又、失望に終わってしまうのでは?」、「今度、駄目になったら立ち
直れないのでは?」という不信仰と恐れの思いでした。この時期は、祈ったり、祈れなかったりの繰り返しでした。

 私は、こんな気持ちのままでは、とても祈り続けることは出来ないと思いました。そして主に、「祈り続けること
が出来るように御言葉を与えて下さい。」と求め始めたのです。
 
ヨセフの出来事

 信仰と不信仰の戦いは、しばらく続きましたが、ある時、創世記のヨセフの出来事が示されました。そして、
ヨセフの様々な記事の中でも特に示された事は、パロの奥さんの悪巧みによって牢獄に入れられたヨセフが、2年後
に解放されたという出来事の「2年」という月日が、私に迫ってきました。

 私は、頭は決して良くないほうですが、その分、単純な所があって、「2年間(あの悪夢のように思えた2001年
7月末から2003年7月末までの2年間)、馬鹿になって必死に祈り続けよう。」と主の前に決心しました。そして、
「ヨセフの出来事」と「2年」という数字を握りしめて、ひたすら毎日祈り続けました。

 救われた!

 2002年の2月頃から土曜日の午後、御言葉ランチというタイトルで教会学校の働きを始めました。そしてKさん
と二人の子供たちが、来るようになりました。(私の気持ちの中では、Kさんが、御言葉ランチに通う中で御言葉を
聞き、今年のクリスマスあたりに救われれば良いなぁという期待がありました。)

 しかし、Kさんが御言葉ランチに通い始めてから3ヵ月後、Kさんの方から身の上話を始めて、あっさりとイエス様
を信じて救われてしまいました。その時の私の感想は、「こんなに簡単に救われるのか?」という伝道者らしからぬ
気持ちでした。そして、その年の9月には、あるクリニックのTさんが、やはり信仰告白をして救われました。

 アパートでの開拓伝道では限界があると感じていましたが、主はこの年(新会堂建設が白紙になった翌年)、二人
のご婦人を信仰告白まで導いて救って下さいました。ハレルヤ!

 おこぼれの祝福で良いから・・・

 ヨセフの出来事と2年という月日の御言葉を握って、祈り続けてきた約束の年である2003年に入り、相変わらず
何の兆候もないまま半年が過ぎ去った6月でした。関根辰雄先生が牧会される大沢バイブルチャーチで、関東リバイ
バル聖会の実行委員会が開かれました。ちょうどその時、大沢バイブルチャーチは、新会堂建設が完成した矢先
でした。真新しい会堂に入り、実行委員の先生方と祝福の祈りを捧げていた時、「主人の食卓から落ちるパンくずは
いただけます。」とイエス様に食い下がって求めたスロ・フェニキアの女性の話を思い出しました。そして私も、
「主よ、大沢バイブルチャーチに与えられている祝福のおこぼれの祝福で良いですから真岡に与えて下さい!」と
万感の思いで祈りました。

 その祈りを捧げてから私の中で、確かに何かが変わりました。その日以来、「与えて下さい。」という祈りから
「与えられます。」という祈りに変わっていったのです。そしてこの6月は、たまたま読んだ信仰書の中にヨセフ
の記事が出ていたり、献金をしていた命の水計画から送られてきたニュースレターの中にヨセフの記事が出ていたり、
献金が与えられる夢(幻?)を見たりと不思議な導きが何度も重なりました。

 一人ぼっちの定礎式
 
 約束の2年を迎えた月の初め(2003年7月1日早朝)、購入したいと候補に挙げて祈り歩いていた土地に行き
ました。そして、「私は、この岩の上に私の教会を建てます。(マタイ16:18)」という御言葉を書き記した
メモ用紙を土地の中に埋め込み、一人ぼっちの定礎式をしてきました。この行為は、必ず与えられるという主に
対する信仰告白でした。

 帰宅後、「定礎式をしてきたぞ!」と妻に話をした所、私を馬鹿にしたように笑いました。(アブラハムの妻の
サラも笑ったとありますが、やはり聖書は真実ですね。)ここで妻の事を書く必要があると思います。この2年間、
妻は余り真剣に祈り求めていなかったようです。そこには妻なりの理由があり、この話が再び駄目になって全くの
白紙になった時に、私(夫)は、「二度と立ち直れないのでは?」という不安があったようです。2年前、白紙保留
になった時の絶望しきった私の姿を目の前で見ていた妻は、2度と私(夫)のあんな姿を見たくは無かったのだと
思います。


 約束の二年

 約束の2年の月日が過ぎ去って、8月に入りました。不思議ですが、私は焦る気持ちではなく平安でした。そして
8月9日、突然のようにM姉からの電話が入りました。そしてその日のうちに、Mご夫妻と万年牧師と私とで久しぶり
の再会を果たしました。主は今も生きておられ、主は真実なお方です。そして主は、求める者に豊かに与えて下さる
お方です。約束の2年後に、約束の献金である「20,000,000円」が献げられたのです。ハレルヤ!

 Mご夫妻は、嵐のようにやってきて嵐のように去っていかれましたが、感謝しても感謝し尽せない気持ちで一杯
でした。私に、真岡市開拓伝道のビジョンと志を立てさせて下さったのは主であり、Mご夫妻に、その開拓伝道の
サポートをするビジョンと志を立てさせて下さったのも主です。しかし、主の導きに従うのは人間の役目です。
そして、従い続けるには大きな犠牲が伴います。その中で主に従い、主に献身をし、そして真岡市開拓伝道のために
犠牲を払って献金を献げて下さったMご夫妻の信仰は、決して朽ち果てる事がない尊いものであると思います。
 実際に献げられた献金は小切手でしたが、数日間は肌身離さずに、寝る際にも枕の下に隠しながら寝た事を思い
出します。しかしこの数日間は、余り生きた心地がしませんでした。


 新たな戦い

 贅沢な悩みかもしれませんが、献げられた2千万円をどのように用いるのかという新たな戦いが始まりました。
候補に挙げて祈っていた約200坪(3千万円)の土地は諦めるしかなく、又、教会を建設するにしても教会堂だけに
するのか、住居兼教会にするのか等、主からの知恵と導きをいただく必要がありました。しかし最大の難題は、
不足分の資金をどのように集めるのかという問題でした。

 どの程度、不足分があるのかを知る為には、まず予算を立てる必要があり、そして予算を立てる為には、土地の
選定と建物の大きさを決めて住宅ハウスに見積もりを出していただかなければなりませんでした。通常の家を建設
するのであれば、総建坪×坪単価で、ある程度の見積金額が出て来ますが、教会となるとそのような計算方法では、
当然出てきません。又、住宅ハウス側も教会建設を手掛けたことが一度もなく、「教会堂」というものを説明するの
にも本当に苦労しました。
 四苦八苦しながらもローコスト住宅ハウス数社から見積金額を出していただきましたが、その中で一番安かった
Pハウスにお願いすることになりました。そして、88.6坪の土地(約1,460万円)と56坪の建物(約2,000万円)
と備品その他(250万円)で、総額(3,700万円)の予算を立てました。
 この時点で、既に捧げられた2,000万円と約束献金として300万円の合計2,300万円が与えられ、不足分として
1,400万円が計上されました。そして私個人が、住宅ローンという形で1,000万円程度の融資を受ける事を念頭に
置きながら、早速ですが、宇都宮福音キリスト教会の兄弟姉妹や知人の先生方に不足分の献金をお願いすることに
なり、多くの方々が献げて下さいました。(2005年1月現在、献げられた献金総額は、30,346,695円です。
ハレルヤ!

 ローン地獄?

 それでも多額の不足分が生じていましたので、1千万円を目安にして、私個人が住宅ローンの融資を受ける方向で
話を進めました。ところがこの時、別の意味でローン地獄に陥るとは、思いもよりませんでした。一番最初に申し
込みをした銀行は、T銀行でした。通常、住宅ローンには、借入人の年収やクレジットカードの引き落とし状況等、
幾つかの審査が設けられていますが、もう一つ、団体生命保険への加入が義務付けられています。これはローン借入人
が、万が一、返済出来なくなった場合に生命保険で補填するためのものです。この団体生命保険に加入する際には、
自分の病気や入院歴等を告知書に記入して自己申告する必要があります。通常、健常者であれば何の問題もなく加入
出来るのですが、私の場合には慢性肝炎という持病がありましたので、それを告知しなければなりませんでした。
(病気があると加入出来ないのが、生命保険の実状のようです。)

 私は、T銀行に申し込む前に、病人でも加入出来る方法がないか事前確認をしました。そしてT銀行から「個人で
別の生命保険に加入している事が条件」というアドバイスを受け、幸いその条件をクリアしていたので申し込みをする
ことにしました。しかしT銀行には、申し込みを正式に受理していただくことが出来ませんでした。納得いく説明を
受けられないまま、うやむやにされてしまったのです。(宗教が関わっているということで敬遠されたようでした。)

 そこでA銀行に申し込むことにしました。そこでもやはり諸所の審査に加え、団体生命保険への加入が義務付け
られていましたが、それでもA銀行には、申し込みを正式に受理していただくことが出来ました。審査期間は10日間
ほどでしたが、私は、「主よ。奇跡を起こして下さい。」と断食をして必死に祈りました。しかし、団体生命保険の
審査で引っ掛かってしまったのです。ところが、A銀行から「A銀行独自のローン(団体生命保険への加入が免除
されたり、無担保で融資が受けられる等の特別ローン)」の紹介をしたいので、来て欲しいという呼び出しが掛かり
ました。翌日になって行ってみると、今まで一度も立ち入った事がない窓口後方にあるビップルームに連れられて、
支店長とお会いしました。

 私は、どんなローンを紹介して下さるのかと期待に胸を膨らませていました。ところが、ローンの説明ではなく、
私の職業にかかわる身の上話がほとんどでした。そして後日、住宅ハウスの営業マンから話を聞いて判明した事です
が、A銀行の支店長と会って話し合いをしたのは、実は、「面接であった。」という事でした。つまり私(借入人)
が、宗教に関わる人物(危険人物?)であったので、いつの間にか面接をされていたのです。それを知った時、怒りと
悲しみとで心が一杯になりました。なぜならば通常、融資を受ける時、借入人の人格は全く関係ないので面接など
しないからです。ただ宗教関係者という事で、そんな差別を受けなければならないとは本当に悲しい話です。
結果的には、A銀行からも断られてしまいました。

 実は、この年(2003年)の初め頃から新会堂の為の祈りの他に、もう一つ祈り続けて来た事がありました。
それは、「霊的な意味で、この地域を治める牧師にして下さい。」という祈りでした。しかし、地域を治めるどころか、
地域から受け入れてもらえない扱いを受ける事になってしまったのです。この時、自分の身分(経済的な事を含め)が、
この地域の人々から拒まれてしまう存在であることを悟りました。(自分の存在が、余りにもちっぽけなように感じて
止みませんでした。)この出来事の中にも「十字架」という訓練が用意されていたように思います。「この方は、ご自分
の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:11)」
と記されているように、イエス様でさえ
世の中から拒まれたのですから・・・。

 その後も融資を受ける段取りを着々と進めました。申し込みをした金融会社は、合計10社にも及びました。1社毎に
書類を用意して提出し、祈りつつ審査期間を待ち、そして断られるという繰り返しの中で、徐々に追い詰められ、焦りと
失望、そして不信仰へと変わっていきました。Pハウスの営業マンも「いい加減にしてくれ!」と呆れ気味の様子でした。
と言うのも私が断られ続けた理由の一つに、団体生命保険への加入の際に、自分の病気をバカ正直に告知していたから
です。

 通常、病気であったとしても医師の診断書を提出する必要はないので、嘘をついて自己申告するのが、この世の常識?
のようです。(それで融資が受けられるそうですから何のための告知書なのか疑問ですが。)しかし私は、一人のクリス
チャンとして神様の前に嘘をつく事は出来ません。又、嘘をついて借りたお金で教会を建設するような真似は、まるで
神様の聖なるものを自分の手で汚してしまうかのように思えて、とても出来ませんでした。


 最後の誘惑

 しかし、融資が受けられなければ、新会堂建設の話は一向に進まない現実もありました。無駄のように半年以上の月日
が過ぎ去り、悶々とする日々を過ごしている中で、「もう、これで断られたら住宅ローンは諦める。」と決心をして、
一番最後に申し込みをした金融会社は、「栃木信用金庫」でした。その頃には、クリアしなければならない条件は、次の
三つであることがわかっていました。

1 私の年収の問題。
2 宗教法人名義の土地を担保に入れられるか。
3 団体生命保険へ加入できるか。
 幸い1と2の条件は、仮申し込みの段階でクリアしました。そして本申し込みの際には、今まで散々手こずってきた
団体生命保険へ加入する為の告知書を提出しなければなりません。Pハウスの営業マンもこれを逃す手はないと、「これ
(生命保険への加入)をクリアすれば、1,000万円の融資が受けられて家が建ちますよ。」と、つまり一つの嘘をつく
だけで良いんですよと打診(誘惑)してきました。

 私の気持ちは、本当に揺れました。
「一つぐらいの嘘をついてもいいのでは?」
「ここまでがんばってきたのだから最後まで妥協は出来ない?」
「教会が建って福音宣教が前進するのだから聖なる嘘もあるのでは?」
 自分の気持ちを自分で肯定したり否定したり、様々な事を試してみましたが、私の心には全く平安がありませんで
した。そして、恥ずかしながら栃木信用金庫に本申し込みに行って、告知書を記入するその直前まで迷いに迷っていま
した。(もうこれ以上、新会堂建設プロジェクトを伸ばす事は出来ないという焦り、ここまで住宅ローンの融資を受ける
為にがんばってきたのだから報われて良いのでは?という思い等、私の心は難破船のようであったと思います。)

 結果的には、嘘をつかずに済みました(この時、決死の覚悟で告知書を記入した事を一生涯、忘れることは出来ないと
思います。)が、融資を受けることは出来ませんでした。私の半年以上にわたる長い戦いが終わり、別の意味でのローン
地獄は幕を閉じました。しかし、まさに振り出しに戻らされて新会堂建設が一向に進まない状況に追い込まれた私は、
しばらく放心状態に陥っていました。「誰かにこの気持ちをわかって欲しい、理解して欲しい、そして慰めて欲しい。」
そんな甘えた気持ちがあり、正直に言えば、「やっぱり嘘をついておけば良かったのでは?」と後悔する気持ちもあり、
何ともやりきれない気持ちでした。

 しかし、関西のある牧師先生から届いた一通の電子メールで、私は本当に救われました。というのは、月1回のペース
で「新会堂建設経過報告」という電子メールを20数名の先生方や兄弟姉妹に出していたのですが、この経緯(葛藤)を
正直に書いて出した所、その返事を送って下さったのです。その中には、「最後まで真実を貫き通した小林先生に心から
エールを送りたい。神様は、祝福して下さらないはずがありません。」という激励のメールが書かれていたのです。自分
がとった行動は、決して間違っていなかったのだという平安が与えられました。そして、融資を受けられなかった代わり
に、主は必ず祝福して下さるという確信も与えられました。

 今となっては、あの時、迷いに迷ってしまったけれど、嘘をついて借りたお金で教会を建設しなくて本当に良かったと
心の底から言えます。融資は受けられませんでしたが、その代わりにもっと大切な宝(霊的な遺産)を手に入れることが
出来たからです。この出来事は、私の人生の中で貴重な体験となりました。ハレルヤ!


 約束の祝福
 
 住宅ローンの融資を受けるプランを断念した私は、教会債で話を進める事にしました。そして真岡カルバリの丘チャ
ペルが、ある方から480万円を借りられるようになり、主は教会債という門を開いて下さいました。しかし、住宅ロー
ンで1,000万円を借りる予定にしていた金額の約半分しか借りられませんので、建物のプランを縮小変更する必要が
ありました。

 そこでPハウスに再度、縮小したプランで見積りを出していただこうと打診したのですが、この時点でのPハウスの
対応は、「もう、付き合っていられない。」という感じでした。Pハウスにしてみれば、「住宅ローンの融資が受けられる
最後のチャンスを自分自身の単なる正義感で逃してしまった。」と私を叱責したかったのだと思います。Pハウスとの
信頼関係が壊れ始めかけていたので、私はPハウスとの請負契約を解約する事にしました。しかし、ここで解約されては、
Pハウスにとっても「ただ、振り回されただけで、何のメリットもないまま終わってしまう。」ということで再度、見積
もりを出していただける事になったのです。

 私としては、請負契約時のプランから3坪縮小しただけだったので、税込み1,950万円は超えると予想していました。
この金額で建物が建たないわけではありませんでしたが、備品購入費が全く無い状況になってしまいます。私は、
「主よ、もうこれ以上、待てません。安い見積金額が出てくるように奇跡を起こして下さい!」と祈りつつ待ち望んで
いました。そして出てきた見積金額は、なんと53坪の建物で、税込み1,858万円という破格値でした。この金額は、
予想していた金額より100万円も安く、坪単価35万円という信じられない金額でした。「主は、必ず祝福して下さる。」
という確信と平安が与えられたとおり、主はご自身の御業を現して大いに祝福して下さったのです。そして新会堂建設
プロジェクトは、いよいよ現実のものとなったのです。


 主が、私を遣わされた!

 開拓伝道を始めて6年、土地の為に祈り始めて4年半、新会堂建設の話が浮上して3年半が経過した2004年7月21日、
新会堂建設工事が着工になりました。そして、同月25日(日)の午後2時から現場にて定礎式が執り行われました。
夏の暑い日でしたが、合計50名の兄弟姉妹が集まって共に祝福の祈りを捧げて下さった事は、大きな励ましとなりました。
 その後、10月15日に上棟になり、2005年2月15日に引渡しとなりました。53坪程度の建物に7ヶ月の工事期間を
要するのは、余りにも遅すぎて本当に気を揉みました。年始の深夜には、建設現場の対角線上にある建物から出火する
ハプニングがあり、「無事に新会堂建設が完成するのか?」と心配する出来事もありました。しかし、真岡カルバリの丘
チャペルの新会堂建設プロジェクトは、主によって始められ、主によって成された事と確信している今、主のアメイジング
グレース(びっくり仰天するような恵み)と、この地の魂に対する主の熱い思いを実感せずにはおれません。
(これは余談ですが、リバイバルミッションの平岡修二師が、「教会堂が建てば、それだけで証になる。」と私に教えて
下さった事がありました。「この言葉は、真実だなぁ。」と思わされるこんな出来事がありました。

 完成間近の現場に立ち会っていた時、スクーターに乗った中年の主婦が、バイクを止めて私に近寄って来ました。
そして、「この十字架の建物は教会ですか?」と尋ねられたので、「そうですよ。」と答えると、その主婦は、小さい頃、
日曜学校に通っていた様子を懐かしそうに話して下さいました。そして、その方の娘さんは、ミッションスクールに通っ
ていたそうです。「あの十字架の建物が教会かどうか、聞いてきて欲しいと娘から頼まれた。」と言う事でした。
「娘に伝えます。」と言って帰っていかれましたが、主は、確かにこの真岡の魂にも目を留めていて下さいます。
 主の恵みと主の熱い思いによって新会堂が与えられた今、暗闇の世に向かって十字架と教会の看板を高々と掲げつつ、
イエス様のカルバリの愛と救いと解放の御業が、この地域に住む人々に豊かに現される事を主に期待しています。そして、
全ての栄光を主にだけ帰していく教会であり続けたいと心から願っています。真岡カルバリの丘チャペルは、誰のもの
でもなくイエス様の教会であり、イエス様の「十字架」にとことんこだわった十字架信仰のスピリットが貫いている教会
である事を主の御名によって宣言します。 

 最後に、確信を持って今、このように言う事が出来ます。「主が、私を(真岡に)遣わされた。」と。